6話
腰の曲がった老夫が、そそくさと私の前へ進み出た。
馬車の入り口に、小さな階段付きの補助台を置く。
——馭者だ。
豪華な四輪馬車に、気の利く馭者まで付いている。その事実だけで、私は少したじろいだ。
けれど、それ以上に気になったのは——
老夫の腕が、はっきりと震えていることだった。
ぶるぶる、と。
寒さに震える、という程度ではない。
(……え?)
最初は気のせいだと思った。
だが、視線を外しても、なお震えは止まらない。
なぜ、そんなに震えているの?
寒い? それとも、病気?
私は無遠慮にも、その腕をじっと見つめてしまった。
——次の瞬間。
馭者は私の視線に気づき、はっと息を呑んだ。
顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
「も、申し訳ございません……!」
消え入りそうな声でそう叫ぶと、
彼は地面に両膝をつき、勢いよくひれ伏した。
「腕が……勝手に震えて……!」
訳が分からなかった。
なぜ、ここまで恐れられ謝られるのか。
その間も、彼の小柄な身体は、さっきより激しく震えている。
(え、え!?)
私は戸惑い、助けを求めるようにヴィクトルへ視線を送った。
けれど彼は、ただ無感情に馭者の背中を見下ろしているだけだった。
「えっと……とにかく、土下座なんてやめてください!」
「い、いえ……! そのような……!」
妙なやり取りだった。
でも、一つだけはっきり分かる。
——この人、私を恐れている。
それが、あまりにも痛々しくて。
私は思わず屈み込み、馭者の腕に触れた。
「ひょぇえっ!!」
次の瞬間、馭者は悲鳴を上げ、私の手を勢いよく振り払った。
反動で身体がのけぞり、そのまま——ドスンッ。
「ぐえっ……」
カエルが潰れたような声が、夜の森に響いた。
無理な体勢だったのだろう。瞳には、うっすら涙が浮かんでいる。
「だ、大丈夫ですか!?」
私は慌てて手を伸ばした。
——だが。
馭者は尻餅をついたまま、ぱっと顔を背けた。
無言の拒絶。
それが、はっきりと伝わってくる。
私は伸ばしかけた手を引っ込め、小さく息を呑んだ。
「……ごめんなさい」
立ち上がると、ヴィクトルと目が合った。
彼もまた、ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をしていた。
「……どうかしたの?」
「いえ……」
ヴィクトルは、すぐに表情を消した。
馭者の異常な怯え。
ヴィクトルの微かな動揺。
——何かがおかしい。
けれど、今それを問いただしたところで、答えが返ってくるとは思えなかった。
「ミア様、参りましょう」
何事もなかったかのように、
ヴィクトルは私に手を差し出してくる。
冴え冴えとした端正な顔。
そこには、やはり感情がなく、人形のようだった。
「……ええ」
私は胸の奥に小さな不安を抱えながら、その手を取った。
馬車の中は、想像以上に快適だった。
高級感のある落ち着いた内装、程よい硬さのクッション。
揺れも少なく、乗り物酔いしやすい私でも問題ない。
三十分ほど経っただろうか。
森を抜けた先に、遠く、巨大な屋敷が姿を現した。
思わず「おお……」と声を上げそうになり、慌てて口を閉じる。
「皆、ミア様のお戻りを首を長くして待っております」
正面に座るヴィクトルが、仰々しく告げた。
「……そう」
平静を装い、私は小さく頷いた。
その屋敷は、ただの屋敷ではなかった。
横に長く、堅牢で、まるで砦のよう。
——いや、城と言った方が正しい。
(どこかで見たような……)
英国の人気ドラマ。
あの、ダ○ントン・アビーに出てくる、ハイ○レイン城に、よく似ている。
(……まさかね)
馬車は、その城へと続く一本道を、迷いなく進んでいく。
——間違いない。
ここが、ミア・ウォルターの家だ。
私は、この世界で“悪役令嬢”として生きていた彼女の、想像を超える財力と権力に、静かに震えていた。




