↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/73

6話

 腰の曲がった老夫が、そそくさと私の前へ進み出た。

 馬車の入り口に、小さな階段付きの補助台を置く。


 ——馭者だ。

 豪華な四輪馬車に、気の利く馭者まで付いている。その事実だけで、私は少したじろいだ。

けれど、それ以上に気になったのは——

老夫の腕が、はっきりと震えていることだった。

ぶるぶる、と。

寒さに震える、という程度ではない。


(……え?)


最初は気のせいだと思った。

だが、視線を外しても、なお震えは止まらない。


なぜ、そんなに震えているの?

寒い? それとも、病気?


私は無遠慮にも、その腕をじっと見つめてしまった。

——次の瞬間。

馭者は私の視線に気づき、はっと息を呑んだ。

顔色が、みるみるうちに青ざめていく。


「も、申し訳ございません……!」


消え入りそうな声でそう叫ぶと、

彼は地面に両膝をつき、勢いよくひれ伏した。


「腕が……勝手に震えて……!」


訳が分からなかった。

なぜ、ここまで恐れられ謝られるのか。

その間も、彼の小柄な身体は、さっきより激しく震えている。


(え、え!?)


 私は戸惑い、助けを求めるようにヴィクトルへ視線を送った。

けれど彼は、ただ無感情に馭者の背中を見下ろしているだけだった。


「えっと……とにかく、土下座なんてやめてください!」


「い、いえ……! そのような……!」


 妙なやり取りだった。

でも、一つだけはっきり分かる。

——この人、私を恐れている。

それが、あまりにも痛々しくて。

私は思わず屈み込み、馭者の腕に触れた。


「ひょぇえっ!!」


 次の瞬間、馭者は悲鳴を上げ、私の手を勢いよく振り払った。

反動で身体がのけぞり、そのまま——ドスンッ。


「ぐえっ……」


 カエルが潰れたような声が、夜の森に響いた。

無理な体勢だったのだろう。瞳には、うっすら涙が浮かんでいる。


「だ、大丈夫ですか!?」


 私は慌てて手を伸ばした。

——だが。

馭者は尻餅をついたまま、ぱっと顔を背けた。

無言の拒絶。

それが、はっきりと伝わってくる。

私は伸ばしかけた手を引っ込め、小さく息を呑んだ。


「……ごめんなさい」


立ち上がると、ヴィクトルと目が合った。

彼もまた、ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をしていた。


「……どうかしたの?」


「いえ……」


ヴィクトルは、すぐに表情を消した。

馭者の異常な怯え。

ヴィクトルの微かな動揺。

——何かがおかしい。

けれど、今それを問いただしたところで、答えが返ってくるとは思えなかった。


「ミア様、参りましょう」


何事もなかったかのように、

ヴィクトルは私に手を差し出してくる。

冴え冴えとした端正な顔。

そこには、やはり感情がなく、人形のようだった。


「……ええ」


私は胸の奥に小さな不安を抱えながら、その手を取った。


馬車の中は、想像以上に快適だった。

高級感のある落ち着いた内装、程よい硬さのクッション。

揺れも少なく、乗り物酔いしやすい私でも問題ない。

三十分ほど経っただろうか。

森を抜けた先に、遠く、巨大な屋敷が姿を現した。

思わず「おお……」と声を上げそうになり、慌てて口を閉じる。


「皆、ミア様のお戻りを首を長くして待っております」


正面に座るヴィクトルが、仰々しく告げた。


「……そう」


平静を装い、私は小さく頷いた。

その屋敷は、ただの屋敷ではなかった。

横に長く、堅牢で、まるで砦のよう。

——いや、城と言った方が正しい。


(どこかで見たような……)


 英国の人気ドラマ。

あの、ダ○ントン・アビーに出てくる、ハイ○レイン城に、よく似ている。


(……まさかね)


馬車は、その城へと続く一本道を、迷いなく進んでいく。

——間違いない。

ここが、ミア・ウォルターの家だ。

私は、この世界で“悪役令嬢”として生きていた彼女の、想像を超える財力と権力に、静かに震えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。