12話
「……ふぁ。やっと、一人になれた」
部屋の扉が閉まる音を背に、私は小さく息を吐いた。
ミアの私室――そう呼ばれる場所に、ようやく辿り着いたのだ。
どこが自分の部屋なのか分からず、結局ヴィクトルに案内してもらった。
彼は最後まで余計なことを言わず、扉の前で一礼すると、音もなく去っていった。
――その背中が、なぜか妙に名残惜しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「天蓋付きベッド……」
思わず呟く。
視線の先には、白いレースに包まれた大きなベッド。
蔦と鳥が描かれた淡いピンクの壁紙、赤い絨毯、猫足のテーブルと椅子、年代物のドレッサー。
どれも一目で“触れてはいけないもの”だと分かるほど高価だった。
豪奢なのに、どこか息が詰まる。
まるで――長く使われていない舞台装置の中に放り込まれたような感覚。
「ここで……ミアは暮らしていたのね」
乙女趣味の部屋と、彼女の悪名。
どうにも噛み合わない。
ふと、ドレッサーの鏡に視線が吸い寄せられた。
「……っ!?」
思わず一歩、後ずさる。
そこに映っていたのは、見覚えのない少女だった。
長い金髪、陶器のような白い肌、宝石のような緑の瞳。
恐る恐る、巻き毛に指を絡める。
絹のように、するりと指が通った。
(……私、なの?)
ごくっ、と喉が鳴る。
数刻前、森で見た“あの少女”と、寸分違わない顔。
「ミア・フォルトナー……」
名前を呼ぶと、鏡の中の少女が同じように口を動かした。
高く、澄んだ声。前の自分とは似ても似つかない。
背筋が、ぞわりと粟立つ。
――似ている、なんてレベルじゃない。
これは、完全な“成り代わり”だ。
ここまで同じなら、疑われるはずがない。
ヴィクトルも、使用人たちも、私をミアだと信じ切る。
(……だから、余計にまずい)
この世界でのミアの結末はひとつ。
逃げ場のない、「死」。
ラストは処刑にて斬首。
想像しかけて、慌てて思考を切り離した。
ぶるり、と身体が震える。
「……冗談じゃない」
拳を握りしめる。
私はミアじゃない。
王子にも近づかない。婚約者にも関わらない。
――そして、死ぬ役目は、私のものじゃない。
そう決めたはずなのに。
なぜか、部屋の奥がひどく暗く感じた。
気のせいだ。今日は、あまりにも色々ありすぎた。
「お風呂に入って、寝よう……」
浴室には、すでに湯が張られていた。
薔薇の花弁が浮かび、甘い香りが立ち上る。
湯に身を沈めると、張りつめていた神経が少しずつほどけていく。
――どの世界でも、お風呂は人を油断させる。
湯上がりに絹のナイトドレスをまとい、ベッドに横たわると、抗えない眠気が押し寄せてきた。
(次に目を覚ましたら……)
元の世界であってほしい。
そう強くねがった。意識が闇に沈みそうになったころ――
コンッ。
扉の外で軽いノック音がした。
(気のせいだろうか。)
そう思っていると、今度はハッキリと、コンッ、コンッ、と鳴った。
(こんな時間に誰だろう? ヴィクトルさん?)
私は重たい身体を起こして、扉へ向かった。すると、扉の下から何かが出てきてギョッとした。
(これって……。)
どうやら、手紙みたいだ。
手に取ると、ざらついた紙の感触がした。
二つ折りの紙を広げると、そこには……。
『人殺し!』の文字が大きく書かれていた。
私は思わず身体をこわばらせた。
――この手紙をくれた人は、私が本当のミアを滅して、埋めたことを知っている!
私は、まだ知らなかった。
まだこの夜は終わっていない……ということを。
◆◆◆
私はまた、あの暗い森をさまよっていた。
見渡すかぎり、木、木、木。
転生したときと、同じ森だろうか。
気づけば、ミルクのように濃い霧が足元から流れ込み、あっという間に視界を奪っていく。前も後ろも、右も左もわからない。
(こういうとき、どうすればいいの……?)
立ち止まるべきか、それとも動いて状況を変えるべきか。答えなど、森が教えてくれるはずもなかった。
そうこう考えているうちに、霧はふっと引き、景色が輪郭を取り戻す。
私は思わず息をついた。知らない場所で、視界を奪われるほど怖いことはない。
——そのとき。
自分以外の「何か」の気配を感じた。
それは、私がこれから進もうとしていた方向。
「……誰か、いるの?」
声をかけると、数百メートル先の茂みががさりと揺れ、黒い影が顔をのぞかせた。
視線が、合う。
真っ黒な顔に、金色の双眸。
ぎっしりと並んだ牙をむき出しにし、低く唸る。
(……狼!?)
背筋が凍った。動物園の檻の中でしか見たことのない存在が、今、目の前にいる。
狼はゆっくりと茂みから姿を現し、その想像以上に大きな体で、こちらへ歩み寄ってくる。
私は反射的に踵を返し、走り出した。
同時に、背後で地面を蹴る音がする。
(なんで……私がこんな目に……!)
息が上がり、足がもつれる。狼は容赦なく距離を詰めてくる。
次の瞬間、背中に強い衝撃を受け、私は大きな木の下へ倒れ込んだ。
体勢を立て直す間もなく、重い体が覆いかぶさる。
(——終わった)
首元に、生温かい吐息。
獣の匂いが、近すぎる距離で鼻をついた。
私は目を閉じ、死を覚悟した——はずだった。
だが、牙は降りてこない。
代わりに、首筋をなぞるような、奇妙に優しい感触。
(……え?)
次の瞬間、私は目を開けた。
暗い室内。柔らかな寝台。
そして、私の上に覆いかぶさる、誰か。
「誰……?」
身じろぎすると、手足を押さえつけられていることに気づく。
首元に触れる、生温かい感触——舌。
(——狼……!?)
「恥ずかしがられているのですか?」
低く澄んだ声。
聞き覚えのある声音に、私は息を呑んだ。
「……ヴィクトル?」
「はい」
顔を上げた彼の金色の瞳が、暗闇の中で光る。
ミアの下僕、人狼のヴィクトルだった。
(どうして、ここに……?)
戸惑う私をよそに、彼は耳元へ顔を寄せる。
軽い痛みとともに、耳たぶに歯が触れた。
「っ……!」
ドクンッと心臓が跳ねる。
混乱と羞恥で、頭が真っ白になった。
(このまま、身を任せていいわけない……!)
「——ストップ!」
私は必死に彼の胸を押し返した。
ヴィクトルは、不思議そうに瞬きをする。
「どうかしましたか?」
「どうかしましたか、じゃないわ! ここで何をしてるの!?」
「……いつも通りですが」
「は……?」
嫌な予感が、背筋を走る。
「つまり……」
「それ以上、言わなくていい!」
私は慌てて彼の口をふさいだ。
——知ってしまった。
この身体の持ち主、悪役令嬢ミアが、何をしてきたのかを。
「……私は、あなたにこれを強要していたの?」
「そうなりますね」
何をいまさらと淡々とした答えに、胸が締めつけられた。
「断ったら……?」
「この屋敷にはいられません。噂を流され、行き場も失います」
言葉を失った。
ここでは、彼の意思など存在しないのだ。
それどころか、人としての尊厳すら奪われている。
(……ひどすぎる)
私は、はっきりと理解した。
悪役令嬢ミアは、権力を振りかざし、立場の弱い者を徹底的に利用する存在だったのだと。




