第五話 戦場帰りの俺と、戻らないもの
アイリーン先生に起こされたタルク。
どうやら彼女の手に握られている名前も知らない棒のようなもので頭を叩かれたらしく、頭頂部に軽い痛みがあった。
「タルク。授業がわからなくても、話は聞いておけ。」
「……おう。」
頭頂部をさすりながら、タルクは眉をひそめた。
――今の、反応できなかった。
ちょっと前なら、避けられていたはずの一撃だ。
それが、こうもあっさり当たる。
――なまった、か。
こんなんじゃ、すぐに戦えなくなっちまう。
鍛え直さないと、な。
そうだ。
マルコスかミーナに手伝ってもらうのもいいな。
目隠しして、背後から斬りかかってもらう。
それに対処する。
「おお!これだ!」
思わず、声が漏れる。
「タルク。うるさい。
まだ寝ぼけているのか?
……授業の邪魔をするな。」
「……お、おう。」
教室に小さな笑い声が広がる。
見回してみると、アルベルトの席だけが空いていた。
……どこ行ってんだ?あいつ。
――
「本日は、これまで。」
アイリーン先生の授業は、俺が睡魔と戦っているうちに終わった。
「ああ……疲れた」
椅子に大きく寄りかかり、グゥッと背伸びする。でかいあくびと共に。
「ふふ、タルク君、
お昼、いっぱい食べたもんね。」
ミーナに話しかけられる。
心なしか、午前中よりも元気があるように感じる。
「おう。いっぱい食った。
……でも食べたら元気になるはずじゃねぇの?」
「あ、それはそうなんだろうけど、
その前に、眠くなっちゃう、よね。」
「ええ……?
そうなのか?」
納得がいかず首を傾げると、ミーナはくすくすと笑った。
「タルク君、ほんと変わってるよね」
「そうか?」
まあ、よく言われるが。
――それよりも、だ。
もう一度、教室を見回す。
やっぱり、アルベルトの席だけが空いたままだ。
「……なあ、ミーナ」
「ん?」
「アルベルト、どこ行ったか知らねぇか?」
ミーナはきょとんとした顔をしてから、首を横に振った。
「ううん……見てない、かな」
「アルベルトは早退したみたいだぞ。」
帰り支度を済ませたマルコスが二人に近づいてくる。
その時だった。
教室の扉が大きな音を立てて開かれる。
「タルク!
タルクはまだいるか?」
顔を覗かせたのは、授業を終え退室したずのアイリーン先生だった。
「おう。ここだ!」
「ああ、よかった!
……お前に客だ。すぐに職員室に行くぞ。」
「ん、わかった。」
俺は、短く答えると立ち上がり、アイリーン先生についていく。
――俺が出て行った教室では、マルコスがミーナをそそのかしていたらしい。
職員室を、覗こうってな。
……まあ、この時の俺は、そんなこと知る由もなかったんだけど。
――
職員室前に到着すると、アイリーン先生は神妙な顔をした。
「いいか、絶対に、粗相をするなよ。」
「そそう?なんだよそれ、わかんねぇよ。」
「失礼のないように、だな。
絶対に、失礼をするなよ。」
「また、わかんねぇって!
……帰るなってこと?」
俺は編入初日にミーナが職員室で言った「失礼します」を思い出して言う。
「……違う。
もういい……」
アイリーン先生は額に手をやり、大きく息を吐く。
腹でも減ってるのか?と聞いたらめっちゃ睨まれた。
「……いいから、ついて来い。」
「おう。」
昼飯の肉、持ってきてやればよかったかな。と思いながら俺は頷く。
アイリーン先生はもう一度大きく息を吐くと、表情を固くした。
壊れ物でも触るように、扉を開く。
ブワッ
扉の隙間から、風が吹いた気がした。
優しい風じゃない。
突風でもない。
――嫌な風だ。
日中の熱で蒸れた腐肉の上を、ぬるりと這ってくるような。
扉が開かれる。
風の原因がこちらを見る。
ガチャガチャと装飾がたくさん付いた、動くだけでウルセェ服。
「貴様が、タルク、か。
思っていたよりも、小さい、な。」
「……テメェは……」
喉の奥が、焼けるみたいに熱くなる。
頭髪が総毛立つ。
思い出すまでもない。
ボドロフ。
レオナルトの父。
――あいつを、殺した奴だ。
奴が、口を開く。
「なんだその目は。
……礼儀も知らんか。」
「まあいい。
貴様のような者に、それを求める方が間違いだな。」
「儂はボドロフ・ド・ファルマス伯爵。
……アルベルトの父だ。」
俺は、奴を睨みつける。
正直、ぶっ殺してやりたい。
「貴様、アルベルトと勝負して、
まぐれではあろうが、勝ったらしいな。」
「明日、もう一度決闘だ。」
「安心しろ。
次は“まぐれ”は起きん。」
「貴様のような者が勝つなど、
あってはならんことだからな。」
「――正しい形に戻すだけだ。」
まるで結論が決まっている話でもするように。
「わかったら下がれ。
貴様のような下賤と話すだけで儂の格も下がるというもの。」
「……まったく。
戦場帰りの犬は、躾もなっておらんか。」
汚いものを見る目で。
俺は、確かに戦場では犬コロ以下だった。
だから、そんな目には慣れてる。
別に俺のことをどうこう言うのは構わない。
「アンタは、レオナルトを……!」
「レオナルト……?
ああ、貴様はアレと同じ隊だったな。」
「アレ、だと……」
「そうだ。
あんな妾の子、生きていてもなんの役にも立つまい。
あの場で死ねてよかったではないか」
「……ああ、
貴様、アレの情夫か?
アレもそのような色気があったとはな!
……アレの身体はどうだった?」
――下卑た奴の笑い声を聞いた瞬間、頭の中で、何かが切れた。
途端に、世界の色が裏返る。
踏み込んだ。
気づいた時には、
拳はもう、奴の顔面にめり込んでいた。
拳に伝わる、骨の砕ける感触。
机を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶボドロフ。
素早く奴に飛びかかり、喉笛を潰してやろうと足を振り上げる。
「やめろ!タルクっ!」
鋭い声で制止される。
腕を掴まれる。
……振りほどこうと思えば、いつだってかんたんに振りほどける。
――なのに。
力が、入らねぇ。
気づけば、涙が止まらなかった。
「ちくしょうが……!」
あの時、もっと俺がわがままを言えば、あいつは死なずに済んだだろうか。
――あれは、もう、一年前、か。
「今度の作戦では、久しぶりに別行動だな。」
いつも通り、軽鎧で胸を押し潰しているレオナルト。
「久しぶりっていうか、そんなのお前の初陣以来だろ。
……俺がいなくて、大丈夫か?」
「まあ、多少はやりにくいかもしれんが……
父が考案した作戦だ。
成功させたい。」
「はんっ。
……お前の、失敗続きの、無能な、親父、だろ?」
「……まあ、それについては明確に否定できる根拠はない。」
事実、一年前のボドロフは男爵に過ぎず、「無能のボドロフ」とまで揶揄される人物だった。
自らの失敗で窮地に陥っているのは確かだが、「息子」のレオナルトの功のおかげで首の皮一枚で助かっている。
――それは、レオナルト自身もよくわかっていた。
「父を助けるのは子としての義務だ。」なんて言ってた。
「……うーん。」
二人の間で名誉に絡む話が出た時は、なるべく早くその話題を終わらせる。
それが四年を共に過ごした二人の間にできた、暗黙の了解だった。
というか、そうしないと殴り合いの喧嘩に発展する。
だが、この時は、嫌な予感がした。
「……なあ、この作戦」
「ん?」
「妙じゃねぇか?」
「何がだ?」
「俺らを分ける理由がねぇ。
いつも通り突っ込めばいいだろ」
レオナルトは一瞬だけ黙った。
「……命令だ」
「それはわかってる」
「……父の、な」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「……お前、わかってんのか?」
「何をだ。」
「その“命令”が、クソだってことをだよ。」
レオナルトはすぐには答えなかった。
焚き火の火が、鎧の留め具を赤く照らす。
「……わかっている。」
「じゃあ断れよ。」
「断れる立場ではない。」
「だったら俺も行く。」
「来るな。」
「は?」
「これは、私の役目だ。」
「役目?」
「父が用意した作戦なら、なおさらだ。
ここで私が退けば、あいつは“やはり女は駄目だ”と言うだろう。」
「だからなんだよ。」
「……だから、行く。」
気に入らなかった。
名誉だの、役目だの、そんなものより先に、生き残ることを考えろと怒鳴りたかった。
でも、レオナルトの顔を見たら、言葉が喉に引っかかった。
あいつは、怖がっていた。
怖がってるくせに、
それでも行く顔をしていた。
「――タルク。」
「あ?」
「お前は、死ぬな。」
「なんだよ急に。」
「命令だ。」
「うるせぇ。
命令なら俺もするぞ。
お前も死ぬな。」
レオナルトは、少しだけ目を丸くして、
それから、小さく笑った。
「努力しよう。」
「努力じゃ足りねぇよ。」
「なら、善処する。」
「難しい言い方でごまかすな。」
「……面倒なやつだな、お前は。」
「お前にだけは言われたくねぇよ。」
いつも通りの軽口だった。
なのに、
その時の俺は、なぜか腹の底が冷えていた。
翌朝、出陣前。
俺は最後まで食い下がった。
「やっぱり妙だ。
俺もそっちに行く。」
「駄目だ。」
「なんでだよ!」
「命令だ。」
「またそれか!」
怒鳴った俺に、レオナルトは静かに言った。
「……タルク。
お前が私の命令をまともに聞いたことなど、一度もないだろう。」
「だったら今も聞かねぇ。」
「いや、聞け。」
そこで初めて、
レオナルトは、俺から目を逸らした。
「今回は、聞いてくれ。」
その一言で、
俺はそれ以上、言えなくなった。
――言えなかった、じゃない。
言わせてもらえなかった。
あいつは、気づいていた。
この作戦が、
まともじゃないことも。
自分が、
切り捨てられる側にいることも。
それでも。
それでも、あいつは行くと言った。
行かなきゃいけない顔をしていた。
……クソが。
「……死ぬなよ。」
それだけは、絞り出した。
レオナルトは、少しだけ笑った。
「……善処する。」
ふざけた返事だった。
――あいつらしい、返事だった。
――ざっくり言うとこの作戦は、俺たちの小隊を半々に分け、俺がボドロフの中隊と共に敵の正面から突っ込む。
レオナルトは隘路から陣地へ入り込む敵兵の警戒。敵兵が侵入すれば対処するか、隘路を戻り、本隊へ報告する。その判断はレオナルトに任される。
これだけ見ていると、普通なら俺の方が当たる敵の量は多く、レオナルトは安全そうだ。
だけど、……イヤな予感がする。
何もなけりゃあ、いいんだけどな……
行軍自体は順調だった。
ボドロフお抱えの中隊に組み込まれた俺たちは敵さんの正面へ。
俺はこの時、今になって思えばだけど、そわそわしていた、と思う。
さっさと敵を蹴散らして、レオナルトと合流しないと。と考えてばかりで、中隊の後方が隘路に向かったのを見落としたくらいには。
◇
俺たちの目の前には、敵が集結していた。
――多い。
だが、それだけだ。
統率も雑で、
装備も粗い。
主力って感じじゃない。
俺はいつも通り、全力で駆けた。
手当たり次第に斬る。
喉を裂き、
鎧の隙間に剣をねじ込み、
倒れる前に次へ飛ぶ。
作戦通りに進んでいる。
その時は、そう思った。
だが。
斬っても、
斬っても、
敵の圧が変わらない。
いや、違う。
敵は多いが、質は低い。
前にいる奴らに、強えと思う奴はいない。
「……おい」
嫌な汗が、背を伝う。
慌てて振り返る。
味方が、減りすぎている。
ついさっきまでいたはずの連中が、
もう半分も残っていない。
しかも、後ろにいたはずの兵ばかりが消えている。
なんで、後ろの奴らばっかり、こんなに減ってる?
指揮官であるボドロフの姿も見えない。
次第に囲まれていく。
このままじゃあ、やばい。
「さっさと突破するぞっ!」
年上の兵士達に檄を飛ばす。
戦歴で言ったらすでに九年。
タルクより古参の兵など、そうそういない。
無我夢中で戦い続けた。
日が傾き始めた頃、やっと帝国兵は撤退していった。
「ハァッ!……ハァッ……!」
激しい息に喘ぐ。
俺自身も無傷とはいかず、あちこち斬られてはいるが、……まあ、死ぬほどじゃない、と判断。
「レオナルト……!」
俺は、消耗した身体で歯を食いしばり、力を振り絞って駆け出す。
目的地はもちろん、レオナルトが向かった隘路。
隘路に近づくにつれ、血の臭いが濃くなる。
嫌な予感が、もう予感じゃないことを、
身体のどこかが先に理解していた。
「おい……」
足元に、見覚えのある装備が落ちている。
王国兵のものだ。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
そのどれもが、雑に壊され、
持ち主ごと踏み荒らされたように血に塗れていた。
「レオナルト!」
叫ぶ。
返事はない。
隘路の入口に辿り着いて、俺は足を止めた。
道の奥まで、
死体が転がっていた。
どれも見知った奴だ。
……さっき別れたばかりの小隊の片割れ。
その中に、
ひとつだけ、
目を逸らしたくなる死体があった。
最初は、誰だかわからなかった。
鎧は裂かれ、
肉は抉られ、
原形なんてほとんど残っていない。
けれど。
その腰に下がった剣だけは、
見間違えようがなかった。
「……レオ、ナルト……?」
喉が、ひどく乾いた。
他の死体とは、壊され方が違った。
まるで、
憎しみをぶつけるためだけに刻まれたみたいに。
胸は執拗に抉られ、
腹から下も、辱めるように壊されていた。
違う。
こんなの、
戦って死んだ傷じゃねぇ。
殺してから、
ぐちゃぐちゃにしたんだ。
背には、
深く穿たれた穴があった。
弓じゃない。
もっと太い。
槍だ。
レオナルトも、
周りの奴らも、
剣を抜いた形跡すらない。
迎え撃つ暇もなかったんだ。
こんなの――
味方にしか、できねぇ。
「……ボドロフ……!」
喉が潰れるくらいの声で、
俺は、その名を吐いた。
「……ちくしょう……」
レオナルトの、開かれたままの乾いた瞳を覗きこむ。
「よお……レオナルト……
それが、名誉ある戦死ってやつかよ……?」
揺れることもない。
もちろん返事もない。
……当たり前だ。
あいつは、
俺の軽口に拳を飛ばしてくることも、もうない。
今までも、何度も味方の死体は見ていた。
俺を拾ってくれたおっちゃんも、
余ったパンを分けてくれたにいちゃんも、
最後はひでぇ死に方をしていた。
でもよ。
これは、ねぇだろう。
戦えもせず、
裏切られて死ぬなんて、
そんなの、あっていいわけがねぇだろ。
しかも、
それが実の親父だなんて――
俺は、開いたままのレオナルトの瞳を閉じる。
それから、傍らの剣を拾い上げる。
貴族らしくない、装飾の少ない剣。
昔、武具店で一緒に選んだやつだ。
「こんな安物」と、あいつは文句を言っていたくせに、ここ一番の時にはいつもコイツを持って行ってたな。
鞘に入ったままの剣は血に塗れて手に滑る。
それでも、離す気にはなれなかった。
そうだ。
俺はあの時、
このクソ野郎をぶち殺すって決めたんだ。
――絶好の機会じゃねぇか。
一度は脱力した身体に再び力が戻る。
「レオナルトの、仇がぁ!」
自分でも驚くほどの怒声が、職員室に響いた。
掴まれた腕を振りほどき、
崩れた机の中に転がるボドロフを睨みつける。
うめき声。
まだ生きていやがる。
なら、これから殺しゃあいいだけだ。
レオナルトにしたことを、してやる。
後悔させて、殺してやる。
一歩、
また一歩、近づく。
後ろから誰かに襟首を掴まれる。
さらに腕を掴まれる。
一人、二人……じゃねえ。
……三人。
関係ねえ。
そんな力じゃ、
俺は止まらねぇ。
掴まれたまま、
それでも進む。
「タルク!」
「タルク君!」
涙を溜めたミーナの顔がよぎる。
ハッとして振り返る。
そこには、
俺の腕にしがみつくミーナがいた。
襟首を掴むマルコス。
その後ろで、制服の背を掴むアイリーン先生。
ミーナは亜麻色の髪を揺らし、
涙を溜めていたが、強い目で、
「そんなの、ダメでしょっ!」
泣きそうな声なのに、
その言葉だけは、はっきりと俺の胸に刺さった。
足が、止まる。
息が荒い。
喉の奥が焼ける。
それでも、
もう、さっきまでみたいに前に進めなかった。
「……離せ」
掠れた声で言う。
「離さねぇよ」
マルコスが、珍しく笑いも混ぜずに言った。
「今のお前を離したら、
絶対に後悔する」
制服の背を掴んだまま、
アイリーン先生が低い声で言う。
「タルク。
お前が何を抱えているのかは知らん。
だが、ここでそいつを殺せば、
お前の人生はそこで終わる」
「……終わってもいい」
自分でも驚くくらい、
かすれた声だった。
「よくないっ!」
ミーナが叫ぶ。
「よくないよ……!
そんなの、レオナルトさんも、きっと喜ばない!」
その言葉に、
胸の奥を鈍器で殴られたみたいな痛みが走った。
膝が、笑った。
さっきまであれほど沸き立っていた熱が、
急に引いていく。
代わりに残ったのは、
どうしようもなく重たい、
黒い泥みたいな疲れだけだった。
「……っ」
言葉にならない。
殺したい。
でも、
殺せば終わる。
そんなことは、
とっくにわかっていたのかもしれない。
それでも、
今さらどうしろっていうんだ。
俺は、歯を食いしばったまま、
その場に崩れるみたいに膝をついた。
手の中には、
まだレオナルトの剣の感触が残っている気がした。
「……っ」
息が、うまくできない。
ミーナが、俺を抱きしめる。
震える腕で、壊れものでも抱くみたいに。
それなのに、声をあげて、ボロボロと泣いていた。
マルコスは何も言わず、
ただ俺とボドロフの間に立つ。
アイリーン先生の声が、
ひどく遠くで響いていた。
「……誰か、医務室を呼べ。
それと、こいつの身柄を確保しろ」
こいつ。
その言い方が妙にしっくりきた。
もう、どうでもよかった。
ボドロフがどう喚こうが、
何を言い訳しようが、
レオナルトは戻ってこない。
戻ってこないんだ。




