第十一話 戦場帰りの俺と、あいつの弟
本日最後の鐘が鳴る。
やっと、放課後だ。
俺は机にペンを投げ出し、ぐうっと背を伸ばす。
ペンを握っていた指は、じんと痺れている。
大した動きはしていないはずなのに、
右腕の疲労は一夜戦い続けた後みてえだ。
「ああ、
終わった……」
「お、課題、終わったか?」
机の片付けを終え、帰り支度が済んだマルコスは、
タルクの机に開かれたノートを無遠慮にめくり、「なんだ。まだまだじゃねえか」と顔をしかめる。
「……三ページは、終わった。」
「いや、増えたろ?
六ページしねえと、な。」
三足す三は、六。
「ちょうど半分……
折り返しってことか……」
苦労して行軍してきたのに、「何もなかった。引き返すぞ」と言われた気分。
目的地だと思っていた場所が、ただの折り返し地点になって、この後に同じ距離続いているという絶望感にタルクは首をうなだれる。
「そうしてても課題は終わらねえよ?」
と、ニヤリとしながらマルコスは言い、「……そんなお前に、いい知らせがある。」と前置いて、「明日は、語学の授業がない日だ。」と言う。
「……だから何なんだよ?」
「だからさ、「次の授業までに六ページ」って言われたろ?――期限は明後日ってこと。」
「――そっか!
じゃあ、帰ろうぜ!」
俺は、マルコスの一言で天にも昇るような気持ちになって、こんなことなら昼メシもっと食えばよかったなとか、夜メシいっぱい食えるかなとか考えながら、散乱した机の上を片付ける。
課題のせいで昼メシ食う時間も削ったからな。
「ミーナ……は?
あれ?」
「なんか授業終わったら慌てて帰っちゃったぜ。」
「へえ?」
ふと、真っ赤になった顔が浮かぶ。
「……やっぱり熱があったのか?」
マルコスがニヤニヤしながら
「ミーナちゃんと言えば、お前さ……」
と言いかけたその時、
「待て」
と、背後から、
短く、しかし、圧力のある声。
振り向くと、そこにはアルベルトがいた。
制服を着崩さずに、毅然と立ち、
よく見ると、レオナルトにそっくりな目でまっすぐに俺を見ている。
――動揺、している。
俺はその目を見てそう思った。
態度は毅然としているが……
……目の動きまで似てやがる。
もう、教室には数人しか残っていない。
物音も少なくなり、話すならここでも十分だろ。
「……で、
なんだよ?」
「話があると言った。」
「ああ、朝のか。
……なあ、
それ、今じゃねえとダメ?
俺、腹減ってるんだよ。」
横でマルコスが吹き出しそうになる。
……なにがおかしいんだ?
「時間は取らせない。」
どうあっても、譲る気はなさそうだな。
俺は、一つ息を吐く。
「……で?」
俺は、どかっと再び椅子に座る。
アルベルトはそのままの姿勢で、
目の動揺を少し強くして、ゆっくりと口を開く。
「父を、なぜ殴った?」
「……そりゃぁ、
殴りたかったからだ。」
アルベルトが目を細める。
眉間のシワが深くなる。
「テメェのオヤジは、言っちゃならねえことを言った。
……だから、殴った。」
「……言ってはならないこと、とは?」
「……言いたくねえ」
今度はアルベルトが息を吐いた。
「……貴様は、
……貴様は、レオナルト兄様の仇、なのか?」
「あいつは、
……お前の兄様なんかじゃねえよ。」
「……?
どういう意味だ?」
「そのまんまだ。
あいつは女だ。」
アルベルトの目に殺気が灯る。
「バカを言うなっ!
……まさか、『女々しい』だとか言うつもりじゃないだろうなっ!」
「違う」
俺は短く言った。
「あいつは、本当に女だった。」
教室の空気が、すっと冷える。
さっきまで帰り支度をしていた何人かが、
思わず手を止めた気配がした。
マルコスも、もう口を挟まない。
さすがに今のは、冗談じゃねえとわかったんだろう。
アルベルトは、俺を睨みつけたまま、
低い声で言う。
「根拠は?」
「見たからだ」
「何を」
「顔も、身体も、
……死体も、だ。」
アルベルトの喉が、ひくりと動いた。
「……貴様」
「戦場じゃ、隠し通せねえこともある。
鎧の下に何を隠してようがな」
アルベルトは何か言い返そうとして、
けれど言葉が出てこないようだった。
そりゃそうだ。
兄だと思っていた相手が、実は女だった、なんて。
すぐに飲み込める話じゃねえ。
だが、俺にとっては、
飲み込むも何もない。
あの日、俺が見たものは、そういう現実だった。
「……嘘だ」
絞り出すようにアルベルトが言う。
「兄様は、兄様だ。
父上は、そう育ててきた。
私も、そう呼んできた。
今さらそんな……」
「今さら、か」
俺は小さく鼻を鳴らした。
「じゃあ聞くが、
お前の兄様は、なんで前線にいた?」
「それは、騎士として――」
「違う」
俺は言葉を切った。
「騎士として、だけじゃねえ。
あいつは、何かに追われるみてえに戦ってた。」
あの時のことを思い出す。
血と泥にまみれた荒野。
折れかけた剣。
それでも退かず、
退けず、
無茶な間合いで突っ込んで行ったあいつの顔。
怖かったんじゃない。
迷っていたんだ。
「……貴様に、
何がわかる」
「わかるさ」
俺はアルベルトの目を見る。
「少なくとも、
のうのうと後ろで命令だけ出してた連中よりはな」
アルベルトの肩がぴくりと揺れる。
「兄様を、愚――……馬鹿にするな!」
「馬鹿になんてしてねえよ。
むしろ逆だ」
俺は椅子に座ったまま、
少しだけ顎を上げた。
「女の身で戦場に立って、
周りに隠して、
死ぬまで戦った。
大したもんだと思ってる」
「……っ」
「でもな」
自分でも、
声が少し低くなるのがわかった。
「あいつは、
お前ん家に殺されたようなもんだ」
一瞬、アルベルトの呼吸が止まる。
「……何を、
言っている?」
「言葉のままだ。
あいつが何を背負わされてたのか、
お前は知らねえのか?」
「知らない……はずがない!
兄様は誇り高い騎士だった!
父上もそう仰っていた!」
「父親がそう言ったから、そう信じた。
それだけだろ」
「黙れ!」
アルベルトの怒声が、教室に響いた。
残っていた生徒たちが、びくっと肩を揺らす。
だが俺は動かない。
「黙らねえよ。
聞きに来たのはお前だろ」
「……」
「知りてえなら、
都合の悪い話から目をそらすな」
アルベルトは拳を握り締めていた。
白い指が、震えている。
怒りか。
悲しみか。
あるいは、その両方か。
たぶん、こいつは薄々感じてたんだろう。
父親が何かを隠していることも。
あいつの死に、表向きの武勲譚じゃ片づかねえ何かがあることも。
だから、ここに来た。
「……父を、
殴った理由も、
それに関係あるのか」
ようやく、アルベルトはそう言った。
「ある」
「なら言え」
「イヤだ」
「なっ――」
「それは、
お前のオヤジが自分で言うべきことだ」
アルベルトが絶句する。
俺は続けた。
「戦場で死んだ本人に言えなかったことを、
せめて残された家族には、
自分の口で言うべきだろ」
「父上が、
そんなことをするわけが……」
「しねえかもな」
俺は肩をすくめた。
「だから殴った」
アルベルトの眉が寄る。
「お前の父親は、
死んだ娘に対して、
あんまりにもくだらねえことを言った」
教室の隅で、誰かが息を呑む。
アルベルトの顔から、さっと血の気が引いた。
「……娘?」
「ああ」
「兄様、ではなく……?」
「最初からそう言ってる」
しばらく、誰も口を開かなかった。
窓の外では、部活に向かう生徒たちの声が遠く聞こえる。
それがやけに場違いで、
この教室だけ別の世界みてえだった。
やがてアルベルトは、
唇をかすかに震わせながら言う。
「……証拠は」
「ねえよ」
「なに?」
「少なくとも、
今ここでお前に見せられるもんはねえ」
あの日のことを証明できるものなんざ、
戦場には残らない。
死体も、血も、叫び声も、
たいていは土に飲まれて終わりだ。
「ただ、
俺は見た。
聞いた。
それだけだ」
「そんなもの……!」
「信じるかどうかは、お前が決めろ」
俺は立ち上がる。
「でも、俺は嘘は言ってねえ」
アルベルトは、もう俺を睨んでいなかった。
睨む余裕もないんだろう。
視線は揺れて、
今にも何かを見失いそうだった。
……レオナルトに似てるのは目だけじゃねえな。
追い詰められた時の顔まで、そっくりだ。
「今日はもうやめとけ」
俺は鞄を肩にかける。
「腹も減ってるし、
お前も、その頭で話続けられる状態じゃねえ」
「待て……!」
アルベルトが一歩、踏み出す。
けど、その先の言葉は出てこなかった。
引き止めたいのか、
問いただしたいのか、
それとも否定したいのか。
こいつ自身、わからなくなってるんだろう。
俺はそんなアルベルトを見て、
少しだけ声を落とした。
「……あいつのこと、
本当に知りてえなら」
アルベルトが、顔を上げる。
「お前のオヤジに聞け」
それだけ言って、俺は歩き出した。
教室の出口まで行ったところで、
後ろからマルコスが小走りでついてくる。
「お、おいタルク……
今の、マジなのか?」
「マジだ」
「……そっか」
珍しく、マルコスも軽口を叩かなかった。
廊下に出ると、夕陽が差し込んでいて、
目が少し痛い。
「腹減った」
「第一声がそれかよ……」
「昼からずっと減ってる」
「知ってるよ」
そこでようやく、マルコスがいつもの調子で笑った。
俺も一つ息を吐く。
背中の向こう、
教室の中ではまだアルベルトが立ち尽くしている気がした。
あいつは今日、
兄を失ったんじゃない。
兄だと思っていたものを失ったんだ。
そりゃ、きつい。
だが――
知らないままよりは、マシだ。
……たぶんな。




