OB訪問の罠
その男は如才ない笑みを浮かべて、名刺を差し出してきた。
「志望度、高いんだって? だったらOB訪問、いつでも受けるよ。うちの内情、選考のここだけの話、なんでも教えてあげる」
第一志望に近い大手商社のOB。歳は四十絡み。人事にも顔が利く、中堅の実力者だという。就活生にとっては、喉から手が出るほど欲しい太いパイプだった。
俺は素直に話を受けた。営業の俺には分かる。この手の「現場の生の声」は選考で効く。使えるものはなんでも使う。それが就活の鉄則だ。
だが、指定された店で俺は最初の違和感を覚えた。
昼の面談だと思っていたのに、夜。しかも個室の、やたら薄暗い、酒の出る店。テーブルには頼んでもいないコースと酒。OB訪問でこんな店を選ぶか。しかも二人きり。
「まあまあ、堅い話は抜きで。就活、疲れてるだろ。今日はリラックス、リラックス」
男は俺のグラスに、次々と酒を注いだ。断ろうとすると「付き合い悪いと社会じゃ損するよ? うちみたいな体育会系の会社は特にね」と、やんわり圧をかけてくる。就活生の弱みに、内定の匂わせにつけ込む言い方だ。
俺は飲んだ。飲みながら、頭の中で警報がじりじりと鳴り始めていた。
中身は営業二十四年だ。接待の席は、清いのも汚いのも数えきれないほどくぐってきた。だから分かる。この男の目つき。酒の注ぎ方。膝の距離の詰め方。これは「教えてやる」の顔じゃない。「食ってやる」の顔だ。舌なめずりを笑顔で隠している。
*
話の内容は、途中から就活と関係がなくなっていった。
「君さ、彼氏いないの? へえ、意外。そういう真面目で隙のない子ほど、実は危ないんだよなあ」「俺くらいの大人になるとさ、女性を大切にする余裕があるわけ」「どう? 俺が社会のいろは、大人の世界をじっくり教えてあげようか」
下卑た言葉が酒とともに、一つまた一つと増えていく。男の手がテーブルの下で、さりげなく俺の手に膝に触れて、離れ、また触れる。粘つく感触。俺はそれを酔ったふりで笑ってかわし続けた。だが内心は氷のように冷えていた。
やがて男は勘定を済ませて、決定的なことを言った。
「さ、二軒目行こうか。……いい部屋、取ってあるんだ。夜景が綺麗でさ。就活の緊張、ほぐしてあげる。……二人でね」
部屋。ホテルだ。
こいつは最初から、これが目的だった。OB訪問も内情の話も全部、就活生を酒で油断させて連れ込むための餌。内定への口添えをちらつかせ、断れない立場を利用して。おそらく初めてじゃない。手慣れている。
俺は内心で静かに、かつ盛大にブチ切れていた。
こういう手合いを俺は知っている。立場の弱い相手を獲物としか見ない、卑劣な男。営業の世界にも腐るほどいた。取引先の優位を笠に着て、こっちの若い社員に手を出そうとするゲス。俺はそういう手合いのいなし方も、そして社会的な潰し方も心得ている。
だが今この場でビンタを張っても意味はない。それは俺の気が晴れるだけだ。こいつは明日にはけろっとして、次の獲物を探す。泣き寝入りさせて。
俺のやり方は違う。獲物を狙う獣は、罠に深く踏み込ませてから獲る。
「……はぁい。行きましょ、二軒目」
俺はとろんとした声でそう言った。頬を染めて、少しふらついてみせて。中身のおっさんが、四十六年ぶんの憎悪を、酔った女の笑顔の下にぎゅうぎゅうに押し込めて。
男は勝ち誇った顔で、俺の肩を抱いた。獲物がまんまと罠にかかったと思っている。
――かかったのはどっちだ。俺はぐらつく足取りを装いながら店を出た。ネオンの下、男に肩を抱かれながら、俺の頭の中ではこの男の社会的な息の根を止めるための段取りが、冷徹に組み上がっていく。仕込みはすでに始まっている。あとはこいつが決定的な一線を踏み越えるのを待つだけだ。




