揺れる俺、処女という現実
その夜から、俺は眠れなくなった。
田淵の真っ赤な顔が、頭から離れない。拳を握って「好きです」と絞り出した、あの真っ直ぐな声。思い出すたび、胸の奥がじくりとうずく。
俺は布団の中で天井を睨んで、真面目に考えることにした。営業二十四年。難しい商談ほど、逃げずに詰める主義だ。この件も逃げずに、机の上に広げて詰める。
まず、事実の整理だ。
俺は田淵の好意を、まんざらでもないと思っている。これは認める。認めざるを得ない。四十六年、誰にも必要とされてこなかった独身のおっさんだ。あの混じり気のひとつもない好意は、正直、堪えた。堪えて沁みた。田淵はいい奴だ。一緒に飯を食って、くだらない話をして。悪くない。むしろ悪くなさすぎる。それが問題だった。
だが。
仮に、だ。仮に田淵と付き合うとする。そうなればいずれ、その先の話になる。恋人同士になれば。手をつなぐだけでは済まなくなる。
俺はそこで、思考を急ブレーキで止めた。
「……いや、無理だろ。どう考えても無理だろ」
俺は布団を頭からかぶった。
この体は女だ。それも、まだ誰にも触れられていない。医者にそう言われたときは「知るか、そんなもん」と思ったが、事実は事実だ。俺は女の体の処女、ということになる。
そして中身は、四十六のおっさんだ。
田淵とその先に進む、というのは。つまり俺が女として、あの若造に抱かれるということだ。田淵に組み敷かれて、その……。
「――ぞっとする。無理だ。絶対に無理だ」
思わず声が出た。嫌悪ではない。田淵が嫌なんじゃない。ただ俺の中の「男」が、それだけは断固として受け付けなかった。四十六年、男として生きてきた俺が男に抱かれる。心と体がそこで真っ二つに引き裂かれる。想像しただけで全身に鳥肌が立った。どう転んでも、その一線だけは越えられない。越えたら俺は俺でなくなる。
*
つまり、こういうことだ。
俺は田淵の好意が嬉しい。一緒にいたいとも思う。だが恋人になればいずれ来る、その先には絶対に進めない。進む気がない。
中途半端な気持ちで付き合うわけにはいかない。それは田淵に対して、あまりに不誠実だ。あいつの生まれて初めての真っ直ぐな本気を、俺の行き場のない寂しさの埋め合わせに使うことになる。それだけは営業マンとして――いや、人としてやっちゃいけない。人の真心を、こっちの都合で消費する。それがどれだけ罪深いことか。四十六年で嫌というほど見てきた。
「……振るしかねえよな」
答えは出ていた。頭では。とっくに。
だが胸の奥のじくじくした温かさが、その答えをすんなりとは飲み込ませてくれなかった。錆びついた心の一番柔らかいところを、田淵の好意がまだ、じんわりと温め続けている。四十六年、一度も灯らなかった小さな火が、そこにぽつんと点っていた。
「めんどくせえな、女の体は」
俺はぼやいた。だが、めんどくさいのは体じゃない。心のほうだ。四十六年からからに乾いていた心が、二度目の人生でこんな厄介なもので潤うとは。想定外にも程がある。契約書の但し書きにも書いてなかった。
答えを田淵に伝える。それは就活がひと段落してからにしよう。今伝えて、あいつの就活の集中を削ぐわけにはいかない。俺はそう自分に言い訳して、厄介な温かさを抱えたまま浅い眠りに落ちた。
――だが、その「ひと段落」の前に。俺の就活はもっと厄介で、もっと危険な罠に、頭から突っ込んでいくことになる。




