42.王妃サフィアとの決別
ゆらゆらとそこに座って、サフィアは虚ろな目をしていた。
顔は以前の見る影もなく、老婆のように皺だらけになっていた。ほとんど動かないので呼吸をしているのかも時々分からなくなる。
声を掛けるのもためらわれた。
その目の焦点が合っているのかどうかも分からない。
私はそっと近づいた。足音を立てないように、ゆっくりと。
「……王妃様」
小さく声をかけた、その瞬間だった。
サフィアの肩がびくりと跳ねた。
怯えたように、揺り椅子の背もたれに体を押し付ける。
ゆっくりと視線を私の方へ向けると、落ち窪んだめを驚愕に見開く。まるで、私が何か恐ろしいものに見えているかのようだ。
「ひ……っ……」
かすれた声が漏れた。
「王妃様?」
一体どうして、私を恐れているのだろう。
サフィアは、私を迫害してきた人だ。圧倒的にナノリアの方が立場は弱い。
この羽のせいで夫を失ったと公言し、王城から私の居場所を奪った。
恐れるならナノリアの方だと思うのに。
なのに、今更。
今のサフィアは、明らかに目の前の私を見て怯えている。
「こ、こない、で……」
ブレイクが一歩前に出ようとしたが、私は手で制した。
それから私はもう一度、ゆっくりと声をかける。
「王妃様。……ナノリアです」
サフィアは震えた。
「……妖精の……」
かすれた声で、そう呟いた。
「妖精……が……怒っている……」
サフィアは私を指さそうとして、手が震えて上がらない。
目は見開かれ、涙が滲んでいる。
「……許して……許して……。もう……何もしない……」
「私は怒っていませんよ」
事実だ。ナノリアはもういない。
「だって……だってあなた……いいえ、ナノリアは……」
サフィアの言い方に、疑問が浮かぶ。
言い直した。まさか、私の事を知っていると言うのだろうか。
「——ナノリアはもう死んでしまったから……?」
「ああ……っ!!」
サフィアは顔を両手で覆って、嗚咽を漏らしながら泣き出してしまった。
驚いて私の方が固まった。
「な……」
「知らなかったの。私はなにも知らなかったのよ。アディノスが妖精虫を奪ったことも……! だから庇えなかった! 知っていたら、ああ……!」
「——王妃様? 一体……」
王妃はきっ、と顔を上げ、狂気に染まったような目を私に向けた。
「アウルラディス様がお怒りよ。この上なくお怒りだから……もう、この国は終わりだ!」
「妖精王が来たのですか? ここに?」
「ああ……あぁ、何てこと。なんてことに……」
サフィアがぶるぶると震えている。
会話になるのは難しいようだった。
それを見て、私にはどうにも責める気にはなれなかった。
元々責める気で来たわけじゃないけど。ナノリアの記憶を持っている以上、やっぱり一言位物申したい気持ちはあった。
でも。
かつての威厳はどこにもない。強く優しい人だと思った記憶も、もう遠い過去のものだ。
夫の死を受け入れられなくてナノリアにその責任を押し付けた、弱い人だ。
——はあ。
仕方ない。
こんな弱り切った人間を前に恨み言を言えるほど、私は非情でもないし。
「王妃様」
できるだけゆっくりと声を掛けて、私はサフィアの手を握った。
びくりと跳ねあがるように驚かれたけど、そのまま握り続ける。
「アウルラディス様は、私が健やかにいれば妖精の加護は取り戻せると約束してくださいました。だから、大丈夫です」
「アウルラディス様が……」
「これからこの国は回復します。心配しないでください」
「いいの……? 貴方、私を許すと言うの……?」
サフィアの目が揺れている。
「私にはそれを決める権利はないでしょうね」
あ、とサフィアが気付いたような顔をする。
やっぱり。アウルラディスから、ナノリアの死を告げられ、怒りを向けられたのだろうか。
あの時、私が子の体に入った日、アウルラディスは涙を流してナノリアの死を悲しんでいた。この人に恨み言を言うのなら私よりも彼の方がよほど資格がある気がした。
サフィアは泣き出していた。声にならない、弱い泣き方で。
「……ごめ……ごめんなさい……ナノリア、ごめんなさい……」
「アウルラディス様から何を聞いたんですか」
「うぅ……ナノリアは羽の力が弱く、妖精界ではうまく育たないから。だから私達に預けたと」
弱々しい声で、サフィアは途切れ途切れに話した。
「……アディノスが、虫を盗った、と」
黙って聞いていたブレイクがそうか、と声を上げた。
「妖精虫か——昔読んだことがある。人の手に渡れば能力を格段に跳ね上げる伝説の宝物……」
本来であれば、妖精の力を発揮する妖精虫が媒体となって、ナノリアは成長し、いずれ妖精として成長したはずが——というところだろうか。
アディノスが幼いころから神童と呼ばれていたのはその虫のためか。
「——あ、虫!」
私の手に試すように置かれたバッタの死骸があった。あれか。
ナノリアが死んだから妖精虫も死んだのか、もしくはその逆か。
そういえばアウルラディスの胸にも輝く甲虫が乗っていた。私の虫、と言っていた。ペットじゃなかったんだ……。
「本能的に虫を求めてたんだ。だからナノリアは、アディノスに執着した」
本当はアディノスじゃなくてアディノスが持っていた妖精虫に。生まれてすぐに引き離されたから、ナノリアにもよくわからなかったんだろうか。
そして虐げられて、死んでいった。一人寂しく。
——ああ、やっぱり許すことはできないな。
何か一つでも違ったら。この親子の良心が、もしくは人間性がもう少しあれば。ナノリアは死なずに済んだんだ。
そう思ったらやっぱり悔しくて。
罵倒しそうになるのを何とかこらえる。私にはその権利がない——と、思うから。
「ナノリア」
ブレイクに呼ばれて気づく。目の前が霞んでいた。——私、泣いてたんだ。
これは私の涙なのか、ナノリアの記憶によるものなのか。
分からないけど、涙を見せたくもない。
私は袖で涙を拭った。
「王妃殿下」
びくりとサフィアの肩が震える。
「私は城を出ます」
お腹に力を入れて声を絞り出した。
「……さようなら」
もう私にはそれ以上話すことはなかった。
サフィアは泣きながら、かすれた声で言った。
「あ……行かないで……ナノリア……私、これからは……」
一体何を話すつもりなのか。知りたくもないし、考えたくもなかった。
私はもう、振り返らなかった。
ブレイクがついて来てくれて、そっと扉を閉める。
扉が閉まるのと同時にサフィアが崩れ落ち、むせび泣く声が聞こえた。




