39.執務室
入れ代わり立ち代わり色んな人が出入りして、せわしなく動く。
「ナノリア、すまない。少しだけ席を外す」
「はい」
「何かあったらベルを鳴らせば、隣の部屋に侍従がいるから」
しばらくすると、そう言ってブレイクが執務室を出ていった。
「はい。行ってらっしゃい」
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
一人になっちゃった。
そうなると途端に静かな部屋。
机の上の書類の音だけが、かすかに残っている。
窓辺まで歩いて行って外を見てみる。なかなかいい景色だ。王城の庭園が一望できる。——あ、あんなところにリンゴの木らしきものが。
そんな風に庭園の景色に見入っていた時。
——ギィ。
扉がゆっくりと開いた。
ノックもない突然の事に心臓が跳ねる。
ブレイクが帰って来たのかと振り返ったら、そこに立っていたのは、アディノスだった。
びっくりしすぎて声も上げられなかった。
アディノスは、扉の影に半分隠れるように立っていた。
そうしていると本当に以前のような輝きはどこにもない。ただの犯罪者にしか見えない。
油断のない目つきで部屋の中をぐるりと見渡し、それから標的を定めたようにじっと私を見てくる。
その視線が、背筋を冷たくした。
「……ナノリア」
名前を呼ぶ声が妙に湿っていて、低い。
さっきブレイクといた時は虚勢を張って、まだはっきりと喋っていたのに。今はもっと、ねっとりしていて、すごく嫌な感じだ。
アディノスが一歩、部屋に踏み入れた。
「こ、こな……」
来ないで、が声にならない。
どうして。控えているはずの警備は、侍従は。
聞くまでもないだろう。ここはアディノスの城だ。彼を止めるものなんてどこにもいないのかもしれない。
その動きはゆっくりなのに、逃げ道を塞ぐような圧があった。
私は反射的に窓辺から離れた。
心臓が早鐘のように鳴る。
アディノスは、私の動きを見て、口の端をわずかに上げた。
——気づいている。
私が怖がっていることを。そして、それを楽しんでいる。
やっぱりまだお前は俺の支配下にある……そう言われているような気がした。
「……随分、綺麗になったじゃないか」
その言葉はもちろん褒め言葉などではない。
所有物を値踏みするような声だった。
アディノスはさらに一歩、近づく。
光の下に出た彼の顔は、やっぱり以前よりずっとみすぼらしかった。
でもその目の嫌な感じだけは、私を虐げていたものと同じ、興味本位で、残酷で、支配的で——。
動けなくなる。
「羽も……前より大きくなって、光ってるな。誰に手入れしてもらった?」
まるで……俺の所有物を、誰に触らせたのか、とでも言いたげだった。
気持ち悪くて、思わず後ずさって——しまいたかったけど、背中は窓のすぐ横の壁だからそれは敵わない。
「来ないで」
声が震えるのを、深呼吸をして整える。
「……ブレイク様が、来るわよ」
アディノスは機嫌を悪くしたように眉を寄せた。
「——名前で呼んでるのか? あいつは来ない。王国会議の連中との話が長引いて、しばらく戻らない」
なぜそれを知っているのか。——なにか企てているのだろうか。
アディノスの目が、じっと私を捉える。
いつの間にかもう触れ合えるほど近くまで来ていた。
「ナノリア」
今まで聞いたこともないような優しい声を出す。
「お前、俺のこと……まだ好きだろ?」
……………は?
「何を拗ねてるんだ? ブレイクに何を吹き込まれたんだよ。——昔みたいに、俺が呼べばすぐ来るんだよな?」
アディノスの手が私の髪を掬い取っても、私は微動だにできなかった。体が鉛になったみたいに重くて、喉も土でも飲み込んだみたいに苦しい。
「泣いてても、痛くても、俺が抱きしめれば全部受け入れたじゃないか。わざわざ来てやったんだよ。お前を、抱き締めてやろうと思って……」
「ひ……」
両手を広げ、今にも抱き締められそうになって、声にならない悲鳴が上がる。
怖い。
怖くてたまらない。この男に、触れられるのが。
「なあ……戻ってこいよ。俺のところに」
「も……戻らない」
その言葉を口にした瞬間、アディノスの表情が凍りついた。
「は……? 戻らない?」
低く押し殺した声。
怒鳴り声よりずっと怖い。
アディノスはゆっくりと手を伸ばした。
その動きは、獲物を逃がさないために距離を測る、捕食者のようだった。
「ナノリア。やさしく言ってるうちに戻ってこい。可愛がってやるから。あんな堅物の所にいるより、俺といたいだろう?」
「や、もどら——」
言い終わる前に、アディノスの手が私の腕を掴んだ。
「っ——!」
強い力で引き寄せられ、体が前に倒れそうになる。
逃げようとしても、腕が痛くて動けない。
こいつ、こんなに力が強かったの?
「離して……!」
「離すわけないだろ。お前は俺のところに戻るんだよ。それで全部許してやる」
アディノスは私の腕をさらに強く握った。
痛い。
骨が軋むような痛み。
「何を、許すって……」
こいつに許してもらわないといけない事なんて、一つもない。
そう言いたいのに、怖くて息ができない。
アディノスはもう片方の手で私の肩を押さえつけた。
逃げ道は完全に塞がれた、その瞬間。
——バンッ!!
扉が勢いよく開いた。
「ナノリア!!」
ブレイクの声だった。
アディノスの手が一瞬止まる。
肩越しに見えるブレイクは驚いた顔で瞬時に状況を把握したようだった。
「来るな!」
アディノスが大声で命じた声にも怯む様子はなく、ただ静かに怒りを溜めて行っているようだった。
「殿下。ナノリアから手を離してください」
「早いじゃないか」
ちっ、とアディノスが舌打ちする。
「——不自然に引き止められれば気づきます。この部屋の護衛は——後で処分するとしましょう」
さあ、と言ってブレイクが一歩踏み出す。
「来るな!」
「乱暴な振る舞いはやめろ」
「これは俺の女だ! 俺のものを……っ」
アディノスがブレイクを睨みつけ、私の腕をさらに強く引いた。
痛い。
涙が滲む。
「離せ!!」
ブレイクの声が、低く、鋭く響いた。
「これ以上ナノリアに触れれば——殿下を拘束する」
アディノスの顔が引きつった。
「な……公爵風情が俺を拘束できるわけ——」
「できる」
アディノスの手が、わずかに震えた。
それでもまだブレイクを睨みつけている。
部屋の空気は張り詰め、
いつ何が起きてもおかしくない緊張状態だった。




