38.ナノリアの羽
まだアディノスも幼かった。私はもっと幼くて、力も弱い、まだ10かそこらの頃だ。
きっとアディノスはただの興味本位だったのだろう。
捕まえた昆虫を調べる、その程度の。
アディノスは私の羽を「観察する」から、じっとしていろと命じた。
初めのうちはまだ耐えられた。じろじろと見られて、少し触られるくらいは。
——ぶちっ。
「あ、あああぁぁぁ!」
あまりの激痛にナノリアはその場に倒れ込んだ。
「何だ? 大袈裟だな。たったひと欠片むしっただけで」
アディノスは面白いおもちゃを見つけたように、けらけらと笑った。
「そんなに叫ぶことか? 耐えて見せろよ。俺が好きなんだろ?」
「や、止めて……お願い、それだけは」
ナノリアは震えながら懇願した。
「はっ、これは愉快だな。お前でも俺に嫌だという事があるのか」
確かに、ナノリアがアディノスを拒んだのは、これが初めてかもしれない。
アディノスはますます面白そうに笑った。
「いいぜ。やめてやっても。だったらもう二度とお前とは会わない」
「そ、そんな……」
その時のナノリアには、アディノスの「会わない」という言葉はこの世の終わりのようなものだった。
死刑宣告に近い。
だから、一時の痛みであれば耐えるしかないと思った。
耐えられるだろうか。
じわりと涙が浮かぶナノリアに、珍しくアディノスが優しい声を掛けた。
「右だけ欠けてたらおかしいだろ? よしよし、同じ形にしてやるよ。お前が俺の女だっていう目印だ」
「アディノスの……」
「ああ。我慢できたら、抱き締めてやろうか」
「ほ、ほんと……?」
アディノスから抱き締めてもらえると、不思議と痛みが和らいだり、力が湧いてくる気がする。
だからナノリアはアディノスのこの言葉に縋るしかなかった。
ナノリアは目をぎゅっと閉じて、固く拳を握った。握りすぎて爪が手の平に食い込んだけど、その痛みで少しでも和らげ場と思って。
アディノスの手が羽をつまむ。その不快感に寒気がして、鳥肌が立って。逃げ出したくなるのを必死に耐えた。
ぶちっ。
不吉な音と共に、再び羽がむしられる。
今度は悲鳴も上がらなかった。
ナノリアはあまりの痛さに、歯を食いしばりすぎて口から血を流しながら気を失った。
***
バチン!
大きな音がして、アディノスの手がブレイクによってはたかれた。
「なっ……、なにすんだ!」
「それはこっちの台詞だ」
私はいつの間にかブレイクの腕の中にいる。
「この俺の体に……」
「殿下が先に、ナノリアの羽に触ろうとしたので」
「いいんだよ、俺は!」
「許可なく女性の体に触れてはいけない——という程基本的な事もお忘れとは」
ブレイクは呆れ果てたように首を振って見せた。
「何が女性——」
「ナノリア、大丈夫か?」
「は、はい……」
ブレイクはアディノスを無視して私の背を押す。
「さあ、行こう」
私はもう振り返る気力もなくて、ありがたくブレイクの言葉に従った。
アディノスは追ってこなかった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
そのまま二人でしばらく歩いた。
廊下の空気は冷たくて、さっきまでの緊張がまだ体に残っている。
ブレイクは私の肩を支えたまま、ゆっくり歩いてくれた。
しばらくして、ブレイクが口を開いた。
「……ナノリア」
その声は、さっきアディノスと対峙していた時とは打って変わって、いつもの優しい声だった。
耳にするだけで落ち着いてくる。
「怖かっただろう」
私は小さく首を振った。
怖かったけれど、それ以上に——。
「……ブレイク様が、いてくれたから」
そう言うと、ブレイクは歩みを止めた。
廊下の窓から差し込む光が、彼の横顔を照らす。
まだ表情は固いみたい。
「……殿下が、ナノリアに触れようとした瞬間——」
ブレイクは拳を握った。
「危うく殴ってしまうところだった」
「えっ」
それは大事だ。
手をはたいたのもなかなかに問題な事だけど。
ブレイクは大きく息を吐いて、感情を落ち着けているようだった。
「はあ……。ナノリア、怖かったんじゃないか? まだ緊張しているように見える」
「……ありがとう」
ブレイクは優しく微笑み返してくれた。
「もう少し歩いて、出てしまおう。内城の空気は……あまりよくない」
確かに内城に入った途端に、空気が重く感じる。
私はつい笑ってしまった。
内城から外城のエリアに出て、ブレイクは立ち止まった。
「実は、少しだけ処理する仕事があるんだ。もう今日で終わらせてしまおうと思っていて。ナノリアは先に屋敷に向かってくれたら、伝えておくが——」
「待ってます。いいですか?」
「もちろんだ」
そう言ってブレイクは私を執務室に連れて来てくれた。
久しぶりに来る執務室はきちんと整理整頓されて、改めて見るとブレイクらしい部屋だと感じる。無駄な物がなくて、それでもどこか温かい。
「そこに座っていてくれ。すぐに終わらせるから。適当に見ていてくれていい」
ブレイクがそう言うのと、役人らしい人がやってくるのが同時だった。
もう話はついていたようで、てきぱきと早速書類を捌いて仕事を始めた。
私が座るソファにはお茶が出された。
邪魔をしないように気配を消しつつ、私はお茶を飲んだ。




