31.不穏な影
そうしてまた平和なコーンワルドの生活が続き、季節はすっかり夏を過ぎた。
アウルラディスの言った通り、天幕の綻びに少し改善の兆しが見えた。わずかな変化だったけれど、コーンワルドの皆は歓喜に湧いた。
山頂での事や、私がここに滞在すれば綻びが修復される——という事は伏せていたけれど、妖精がやってきて天幕が再生したから、やっぱり皆私のおかげと思っているようで。以前にも増して大事にしてもらっている。
私のコーンワルド生活もすっかりなじんで、時々町に遊びに行ったり、週末にはブレイクがあちこち連れて行ってくれるようになった。
忙しい摂政殿下なのに、と思ったら、以前から色々準備をして、公爵領に帰ってこれるようにしていたから——って。詳しいことはわからないけど、アディノスが国王になるためにも、自分は早く王城を出た方がいいと思っているようだった。相変わらず執務はしているようだけど、まだしばらくは王城に帰らないと言っていた。
ヨットにも乗りに連れて行ってくれたし、魚釣りも、乗馬も、川遊びも。
ちょっと……いやだいぶ、本当に親子のような立ち位置になってしまっている気はするけど。
——いいの、幸せだから。今はそれで。
***
夜の屋敷は静かで、秋になって私は部屋の窓を開けて眠るようになった。
庭の木々は風に揺れ、葉が擦れる音が遠くでさざめいている。虫の音も風の音も、それを聞きながら眠るとよく眠れるし、体の調子がよかった。
リーフェルの花は温室で咲いている分だけになるから、毎日1輪ずつ。相変わらずブレイクが届けてくれる。
それを枕元に置いて私は眠りにつくようになった。
「自分で取りに行くので、毎日来てもらうのは申し訳ないです」
そう言った私に、ブレイクは言った。
「私の楽しみなんだ。この花を摘んでここに来るまでの間、ナノリアが喜ぶ顔を想像して。嫌でないなら続けさせてくれ」
そう言ってすっかり慣れた手つきで枕元に花を足す。
「——また少し輝きを増したようだ」
ブレイクの視線は私の羽に向けられていた。
「そうですか?」
毎日見ているから自分ではなかなか気づかない。
「まるで、湖面に落ちた月の欠片のようだ」
「あ、ありがとうございます」
さらりとそんな風に褒められるから赤面しそうになる。
はあ。
あれで邪な気持ちが、かけらもないんだもんなあ。
こっちはこうやって、思い出すだけで恥ずかしくてうれしくて悶えてるって言うのに。
私が枕に顔を埋めている——その時だった。
部屋の空気が、ふっと変わった気がした。
リーフェルの甘い香りに混ざって、別の匂いが漂ってくる。
鉄のような、汗のような、嫌な匂い。
まさか。——誰かいる。
物音はしなかった。窓は開けているけれど、ここは4階だ。
私は布団から顔を出した。
胸がざわつく。
「……誰?」
声が震えた。
そこに立っていたのは、今一番見たくなかった顔だった。
ポール。
薄暗い蝋燭の灯りに照らされて、鎧がぎらりと光った。
にやりと笑って、私を見下ろしている。
「……なん、で」
「聞いたぞ、お前、ここに留まるんだってな。殿下に捨てられたからか?」
私の驚きも話も意に介さず、苛立った声でそう言ってくる。
背筋に寒いものが走った。
こいつ。話が通じないんだ。
「何考えてるの。こんなところに入ってきて……正気?」
いくら何でも、女性の寝室に夜忍び込むなんて。
「正気だよ。むしろ、お前が正気かどうか怪しいな」
ポールが一歩踏み込んでくる。
その足音が、やけに大きく響いた。
「あんた……どうやって入ったの」
「別に、厳戒態勢を敷かれてるわけじゃないんだから、いくらでも入り込む隙はあるさ。——まあそれでも1カ月近くかかったがな」
また一歩近づいてくる。
私は反射的に、ずりずりとベッドの中で後ずさった。端まで来て、ベッドから降りる。
「なあ、摂政殿下になんて言ったんだ? 俺を護衛騎士にしたいって、言えって言ったのに。遠ざけられてんだけど? おまけに近々帰還命令が出そうだ」
はあ、と苛立った声と視線を向けられる。
「お前は天幕を直しただの何だの、ちやほやされてるってのに、なあ?」
手が伸びてくる。
「やめて……」
「殿下の所有物が、何を勝手に思い上がってる」
この手は昔、私の羽をブラシでごしごしとこすった時の、乱暴で冷たい手だ。
忘れかけていた恐怖に、逃げようと思っても足がすくんで動けなかった。
喉がひゅっと鳴る。
その時——。
「ナノリア様!!」
パウラの叫び声が廊下から響いた。
ポールの手が一瞬止まる。
「……なんだ、平民メイドか」
シュッ——無機質な音が響く。
ポールが剣を抜いたんだ。それをパウラに向けた。パウラは固まっている。
私は震える声を絞り出した。
「あ、あんた……本当におかしくなったの? こんなところで剣を抜いたら——」
「動くなよ。——ああ、こっちの方がいいか」
ポールが私の首筋の方に剣先を向ける。ピタリと当たるほどの距離。
「ナノリア様……!」
「だ、だめ、パウラ、こいつを刺激したら」
「そいつとっくに正気じゃないですよ。私らに嘘の情報流してここから使用人を遠ざけたんですから!」
パウラはそれでもおかしいと思って、来てくれたんだ。ポールの事を知っていたから。
でもつまり、嘘をついたって事は、ポールにはもう後がない。
確かに、見ればその顔は狂気に染まっているように思えた。
「そうだよ。俺はこいつをどうにかしないと、アディノス殿下に顔向けできないんだよ。こいつを殺されたくなかったらそのままそこを動くな」
パウラはどうしたらいいかと迷っているようだった。私がそれに首を振って、動くなと言う。
叫んだところで気づくところに人がいるだろうか。いたとしても、きっと来るまでに殺される。
どうしたら……。
首に当たりそうな剣が思っていたよりも鋭くて、背筋が凍った。




