26.天幕の綻び
見続けていると、天幕がひらりと翻った瞬間、黒い空に変わる時があった。
はっとしてさらに目を凝らす。
「ナノリア?」
「あそこ……」
「ああ、綻びだな」
黒い空を指さしたが、ブレイクはそれを天膜の綻びと言った。
「布地が一部破れたように見えるところもあれば、擦り切れて薄くなったようなところもある。ここは中でも比較的綻びの少ない所なんだが、あっちの方はかなり天幕が減っている」
ブレイクは遠くの山の峰を指さした。
天幕の綻びを見に来たはずが、一番ましな山頂に案内されていたらしい。
それでも、同じ高さになると向こうの黒いもやも良く見えた。
「ブレイク様には、黒いもやは見えませんか?」
「黒い……以前言っていたものか。私には天幕の切れ間がのぞいても、青空が広がっているが」
ブレイクは4人の騎士にも視線をやるが、皆一様に頷くばかりだった。
手を伸ばして届く距離ではないけれど、あの黒いところにもう少し近づいてみたい……。
数歩足を動かした、その時。
「その先に行ってはならない」
空気がひやりと震えた。
声のする方を見れば、影がひとつ、木の陰からすっと動く。
その姿を確認するよりも早く、瞬間、金属が擦れる音が一斉に響いた。
四人の騎士が反射的に剣を抜き、前へと滑り込んできた。
ブレイクも迷いなく私の肩を後ろへ押しやり、半歩前に出る。
普段の穏やかな空気がすっと消え、獣のような鋭さに変わっている。
うわあ……。
不謹慎にも、かっこいいと思って震えてしまった。
「大丈夫だ、下がっていなさい」
身震いをどう受け取られたのか、とても気遣われている。違うんです。貴方達がかっこよくて——て、そうじゃなくて。
今の声、聞き覚えがあった。でも筋肉の壁に阻まれて、一切前が見えないのだ。
「あの、ブレイク様、ただの先客じゃ——」
そんな警戒しなくても、と思う。ブレイクは硬い表情のままだった。
「ここは立入禁止区域だ」
しゅっ、と剣を抜く鋭い音がする。重そうな剣を少しもぶれることなく静止させて、掲げていた。
「姿を現し、名を名乗れ」
普段の柔らかさが跡形もなく消えて、鋼のような静かな圧が言葉に宿っていた。
「名を……とは。礼儀を知らぬのはどちらか」
緊張が高まる。その人影がゆっくりと姿を現したようだった。
「誰に向かって名を訪ねておるのか、その目で見るが良い」
皆が息を呑むのが分かった。
え、なに、見えないですけど。私は背が低いから。
「ブレイク様?」
つん、と袖を引っ張ってみたら、ブレイクはようやくはっと我に返ったように私を見た。それから、前と私とを見て迷っているようだった。
危険があるのかどうか。剣を収めて良いのかどうか。
「あ、その……今の声、聞き覚えが——」
「え」
私が言うと、騎士の隙間から一瞬姿が見えた。
やっぱり。私がこの世界に来て初めて会った人だ。
「ではやはり、妖精の——」
「え?」
今度は私が聞き返す番だった。
騎士のお兄さんが、左右に数歩ずれる。
開けた視界に入って来たのは、やっぱり眩しいくらい金色のあの人だった。
陽の光を受けているわけでもないのに、輝く金の髪がさらさらと揺れ、足元まで流れ落ちている。
一本一本が光の糸みたいで、風に触れるたびに淡くきらめいていた。
その人は剣を向けられているのに全く怯む様子もなく、私を見て金の眼をすっと細めて見せた。
「また会ったな。やさしい子」
ブレイクの目も似た琥珀色だけど、彼の目は陽の光を受けると蜂蜜みたいにとろりとした温かさが滲む。人の体温を宿した色をしている。それに対し、この人の目は溶けた金属のように滑らかで、覗き込めば吸い込まれそうな深さと冷たさがあった。
彼を見て、私は皆が何に驚いたのかわかった気がした。
金髪金の眼も確かに珍しいし、神々しいまでの雰囲気だけど。何より、その背には、羽があった。それも、私の羽とは似ても似つかない、大きくて立派に張った美しい金の羽が。
薄い膜のように見えるのに、光が通るたび煌めいて眩しい。
羽ばたいていないのに、空気がその周囲だけ静かに震えていた。
ただそこに立っているだけで、山頂の空気が変わる。
世界が、彼を中心に組み替えられてしまったような——そんな存在感だった。
「貴方は……」
「アウルラディス」
彼はすらすらと自分の名前を名乗った。
「妖精王と呼ぶものもいる」
騎士たちが一斉に息を呑んだ。
誰かが合図を出したわけでもないのに、四人の剣が同時に下ろされる。金属が土に触れて、カチャリと微かに音を立てた。
次の瞬間、彼らは揃って片膝をついた。頭を垂れ、胸に手を当てる。
反射的に、自然に頭を垂れているようだった。
ブレイクもまた、静かに剣を収め、黄金の妖精王へと頭を垂れる。
空気を震わせるほどの畏怖と、敬意だろうか。皆から伝わってくる。
妖精信仰の強いこのコーンワルドだからこそ、より一層にそう感じるのだろうか。私はナノリアの知識でも妖精王の記録はあまり覚えていないんだけど。その名前と、建国時からのこの国の礎を支える尊い存在という事は知っている。
「あ……」
「良い」
王様に頭を下げなきゃ——そう思ったら、アウルラディスは短くそう言った。
「おいで、ナノリア。少し話をしよう」
アウルラディスはゆっくりと頷くようにして私を呼んだ。そしてブレイクらを一瞥する。
「そなたらも楽にしておれ」
山頂の空気がようやく緩んだ。
王の威厳だろうか、誰も反抗する意思など微塵もなくなっている。私も言われるままに歩を進めた。
ブレイクの心配そうな顔と目が合ったけど、大丈夫と頷く。




