22.トリスタンの病
私があまりにトリスタンの事を気にして、上の空だったからだろうか。
「大旦那様にお会いになりますか?」
セレナのその言葉に、正直びっくりした。
「そんな! 私は部外者なのに」
侍女である彼女がそう言うって事は、既にルイーナかブレイクが許可しているという事だろう。
ただでさえ余計な客がいる分、仕事が増えて大変だというのに。
「ここをナノリア様の家のように思ってほしいと、大旦那様も仰っていましたもの。きっと喜ばれると思います」
私のためもあるけど、トリスタンのためにも、と言っているようだった。
いいんだろうか。
「会えるのなら……会いたい」
「もちろんです」
あっさりと、トリスタンの部屋に通された。
トリスタンの病はあまりに突然の事だったから、何の準備もできていない——そう聞いたけど、公爵家の使用人に慌てる様子はなかった。皆粛々と仕事をこなしている。
ルイーナがベッドの横でトリスタンの手を握っていた。じっと心配そうに見つめながら汗を拭いている。
その献身的な姿を見た時に、王妃サフィアの事を思い出した。
あの人がナノリアに言った台詞を、今でもはっきりと覚えている。
——お前が陛下を害したのだろう。疫病神。毒をふりまく蛾の妖精。悪魔。
そんな風に呪いの言葉を浴びせられた。
母のように慕っていたサフィアからの言葉は、胸を深くえぐり、ナノリアを絶望に堕とした。
「来てくれたのね」
その言葉にはっとする。
ルイーナは何故か嬉しそうに招き入れてくれた。無理に作った笑顔がさっきのブレイクの顔と重なる。
「突然で驚いたでしょう。今ね、やっと発作が落ち着いて。——起きてはいるから、話してあげてくれるかしら」
そう言ってルイーナは自分がいた場所を譲った。
少し離れたところにブレイクがいて水を渡している。
少し休んでは……そういう訳にも……そんな会話をしていた。
私はトリスタンの側まで言って恐る恐る顔を覗き込む。
ひゅー、ひゅーと鳴る呼吸音が本当に苦しそうで。
恐る恐る手を握った。冷たい手は、少し汗ばんでいる。
こんなに呆気なく、最期になってしまうんだろうか。優しく声を掛けてくれたトリスタンは、昨日は全然、元気そうだったのに。
繋いだ手をぎゅっと握る。苦しそうな顔。何か、できることはないだろうか。
目をつぶって祈るしかできない……。
リーフェルの花の香りがしたような気がした。ここにきてからというもの、あちこちから、ふとした時に感じてはいたんだけど。それがこの部屋にも微かに。
そしてあの黒いもやを見た時の嫌な感覚もトリスタンの中から。
黒いもや……? どうしてだろう。
でも、もしかしてこれを追い出せば……。
ほとんど本能的に、自然にそう感じ、願った。何をどうとは言いにくいけれど、ただ、息を吹きかけるように、悪いものを少し押しやるように。
そうして、数分。
トリスタンの目がうっすらと開いた。
「あ、あなた……!」
ルイーナが駆け寄って、身を乗り出した。
「これは……どうした、ことだろう」
トリスタンが掠れた声を出す。
「嘘のように、呼吸が楽になったよ」
確かに苦しそうな呼吸の音はなくなった。顔色も先程よりもいい気がする。
トリスタンは繋いだままの手を持ち上げた。
「君の力なのかな……」
「え」
トリスタンの手から、私は何も感じない。冷たかった手が今は少し温かくなっているだけだ。
ブレイクも私の背後に立っていた。
「父上」
「はは……もう駄目だと思っていた。こんなに重い発作は初めてだったから。皆に別れをどうやって言うかばかり考えていたのに。ナノリア、君が手を握ってくれた途端、嘘のように苦しみが身体から抜け出て行ったようだ」
「ナノリア。なにか、力を使ったのか? 身体は大丈夫か」
「それが——」
私にもよくわからないけれど……そう言おうと思って立ち上がった途端、ぐらりと視界が歪んだ。
足に力が入らなくてぺたりとその場に座り込む——すんでの所で、ブレイクに支えられた。
「ナノリア……!」
ブレイクの驚いた声ではっとして、視界がはっきりする。
「あ、力が抜けただけです。だいじょ——」
「そんな風には……」
ブレイクはトリスタンと私を見比べた。
「とにかく部屋へ。母上——」
「ええ、早く行って、休ませてあげなさい」
ルイーナはトリスタンの手を握りながら、私に心配そうな視線を向けた。
「ありがとうナノリア。ありがとう——」
ルイーナの言葉も終わらないままに、ブレイクはすたすたと大股で歩く。あっという間に部屋を出て私の部屋までたどり着き、ベッドに降ろされた。
本当にあっという間だった。
「あ、あの……」
「どうした、気分が悪いか?」
ブレイクがベッド横に膝をついて、私を心配そうに見上げている。
「早く横に——」
「私、やっぱり妖精かもしれません」
ブレイクはしばし、ぱちぱちと瞬きをして私をまじまじと見つめた。
「ナノリア。君は妖精だ。そんなに立派で美しい羽を持っているじゃないか」
いや、そうなんだけど。そうじゃなくて。「私」が、ただの人だったし、「ナノリア」だって毒蛾って言われていたし。——でももう、そんなのはどうでもいい。
さっきの感覚を思い出して、私は自分の手のひらを見つめた。
「自然の力を感じるんです。ここに来てからずっと。今までになく」
内城ではなかった感覚だ。
空気に漂う香りのように、良いものと悪いものの気の流れのようなのがわかる。ひどく漠然とした感覚ではあるけれど、ふうっと息を吹きかければその流れは変わる。
「妖精の力が強まっているという事か?」
「分かりませんけど……」
私は窓の外を見た。やっぱり、遠い山の頂上に、黒い雲のようなものが見える。
「あの黒いもやは、きっとすごくわるいもの。それが分かる気がするんです」
私の力も及ばないほどかもしれない……でも、放ってはおけない。
トリスタンの中にあったものと同じものなら、私にも対処できるんじゃないだろうか。
「山に行きたいです」
「とにかく今日は休みなさい」
ブレイクはぐっと私の肩を押した。
それだけで私の体はぐらりとベッドに倒れ込む。
ほら、と言わんばかりのブレイク。
確かに、貧血の時のようにくらくらとしている。
「しばらくは、きちんと休まないといけない」
トリスタンの事よりも、公爵領の事よりも。
とにかく何より私の体調が心配だと、真剣な目がそう言っているようで、どきりと胸が鳴った。




