11.性悪王子
執務室から内城へ入った途端、ドンっ! と強く背中を押された。
そのまま廊下に激しく倒れ込む。
しかも悪いことに、背中を押されたときに羽も押されたから、悲鳴も上げられないほどの痛みに顔から床にダイブしてしまった。
くそう……痛い。
「——馬鹿なのかお前」
アディノスの緑の目が、私を見下ろしている。ブレイクに比べれば覇気も怖さも遠く及ばないが、どうしてここまで怒っているのかわからない。
その怒りの目に、これまでのナノリアの記憶が走馬灯のように駆け抜けていった。
***
ある日、まだ10歳かそれくらいの時、ナノリアはアディノスに湖に落とされた。
上がろうとするのを木剣で頭を押さえられて溺れそうになる。
アディノスの取り巻き数人がナノリアを順番に小突きながら、大笑いしていた。
「ははっ! 実験だ。妖精の羽は、蝶と同じく水をはじくのか!」
「殿下、もっとしっかり沈めなくては! この不潔なところを洗わないと!」
「おう、洗え、もっとそっちを押さえろ!」
そんな風に水に無理やり押し戻され、生臭い水をしこたま飲んで、いよいよ意識が遠のきそうになった頃、よくやく飽きたようにつつくのをやめてくれた。
命からがら岸に上がったナノリアを見下ろして、誰かが声を上げる。
「うわ、羽の粉がおちたら色が変わるんだ」
「ほんとだ。こすってみよう」
とんでもないことを言い出した少年たちに、ナノリアは真っ青になってがたがたと震えた。
「い、いや……いや、や、やめて」
「おい暴れるな。そっち押さえろ」
「はい!」
「殿下、これなんかどうですか」
誰かがブラシを持ってきた。馬を洗う時に使う、固いブラシだった。
両手を抑えられたナノリアは目の前が真っ暗になる。
何とか逃れようと激しく暴れた。渾身の力で何人かを突き飛ばす。
「おい、ナノリア!!」
アディノスが憤怒の表情でナノリアの前に立ちふさがった。
ナノリアはどうしてか、反抗できなかった。アディノスを見ると一気に力が抜けていく。
その場に膝をついて、ぽろぽろと涙を流した。
「おねがいします、それだけは。羽だけは。いたいんです。つらいです」
「お前、俺の事が好きなんだろ」
固まるナノリアに、アディノスはゆっくりと意地悪く口元を歪めた。
「俺の事が好きなら耐えられるはずだろ?」
「ひゅうー」
誰かがはやし立てるように口笛を吹いた。
どうすればいいかわからなくて凍り付いたようになった手足に、再び子供達の手が伸びた。
たくさんの手が伸びてくる。
羽も、手足も、顔もブラシで擦られた。途中からは意識を手放した。薄れる意識の中で、楽しそうな笑い声だけが響いていた——。
***
あまりにも胸糞悪い記憶に吐き気が出てきた。
残念な事にあの時の水の生臭さまで覚えているのだから。
「おい、聞いてるのか」
びりびりと頬が痛む。擦り傷くらいにはなったかもしれない。
こんな人通りのまだある廊下で、一体どこまで痛めつけるつもりなのか。
委縮はするけど、逃げられないわけではない。体はつい強張るけど抵抗はできる。
ナノリアとは違って、私にはこいつへの愛情は露ほどもないから。
今するべきか、まだ様子を見た方がいいのか……。
迷っている間に、アディノスは私の髪の毛を掴んだ。
「あっ、……い、いたい!」
「なあ、なんで断ったんだ?」
「なに、を……」
「報酬だよ。せっかくあの頭の固いブレイクが金を出すって言ってるんだぞ? それも、公爵家の財源だ。たらふく貰わないでどうする!」
「だって……私、なにも、できない、かもって……」
声を絞り出したら、再び突き飛ばすように髪の毛を離された。
私はその場にうずくまって丸まった。
これ以上手を出されるようなら、いっそさっきの執務室まで走って逃げるかと考えを巡らせる。
でもアディノスは何もしなかった。
「この役立たずが。お前に何もできない事なんてわかってんだよ! だからせめて、俺の役に立たせてやろうって言ってるのに」
ちっと舌打ちをされる。
「——まあいい。行けばいいさ。おい、分かってるよな。コーンワルドに行っても適当に理由をつけて、すぐに帰って来いよ。監視を付ける。余計な事を言ったら許さないからな」
余計な事。今みたいな事か。
「そうだ。理由をつけて支度金を貰ってやるか」
いいことを思いついた、というようにアディノスが上機嫌に唇をゆがめた。
「新しい剣が欲しかったんだ」
「支度金……すぐに、ばれるんじゃ」
すごく馬鹿だ、この王子。
「馬鹿だな」
馬鹿に馬鹿って言われた。もう何が何やら、ショックなのか呆れるのか。
頭が冷えすぎてさめざめとしていた。
「ナノリア、お前は俺が好きで、自分の意思で俺に貢いでるんだろう? ちゃんと摂政にもそう言っておけよ」
アディノスはそう言って、足取り軽くさっさと歩いて行ってしまった。
靴音が遠ざかっていく。
あの王子は、本気で信じていないんだ。
こんな風に殴られて、馬鹿にされても。ナノリアが自分を愛しているから、全て言うとおりにしてまた戻ってくるって。この10年そうだったから。
冷たい廊下の床にピタリと張り付いたまま、私はしばらく動けなかった。
あちこち痛い。
羽……折れてないだろうか。まだじんじんと痺れている。
こんな暴力に晒されながら……ナノリア、貴方はどうして耐えることができたの?
耐えすぎたから消えてしまったの?
それでも愛していたから、耐えたのだろうか。
一体、あんな最低な人でなしのどこが良かったんだろう。
記憶を辿ってみても、とにかく追いかけまわして邪険にされ、時に暴力のはけ口にされて——そしてまた、追いかけていく。それしかない。
とにかく会いたい、執着に近い恋焦がれる感情だけは覚えているけど、どこに惹かれたとかそういうのは分からなかった。




