18
お腹を空かせたルーク君を待たせているのでノアにはその後すぐに帰ってもらった。
たった数分のやり取りだったが疲れてしまった。本来私なんぞには手の届かない高嶺の花に好意を寄せられ喜ばしい出来事なのだろうが、憂鬱に感じるのはなぜだろう。立ち去って行ったノアを見送った後も私は薔薇を抱えたまま玄関の前で立ち尽くしていた。
私は一体どうしたら良いのだろう。
「……あ、早くルーク君のところに戻らないと」
一人考えていても答えは出そうにない。
部屋の中に戻ろうとした時にどんっと背中に何かが当たった。
えっ? と思った時には背中に鈍い痛みが走る。痛みを感じた背中に触れてみると手の平がまるで薔薇の花弁のように赤く染まっていた。
「約束したのに、ひどいよ。ゆいちゃん」
ふふふと背後から楽しそうな女性の笑い声が聞こえた。
私が持っていた薔薇を強引に奪い取られた時に相手の顔がはっきりと見えた。笑っていた女性は夏希だった。
「よかった、私ね、ずっとゆいちゃんを見張ってたのよ。ノアってああ見えてうっかりさんだから間違えてゆいちゃんのところに来ちゃうかもって」
「ずっと隠れて見ていたんだから」と夏希が通路の奥にあるアパートの大家さんの趣味の置物や私物が置かれているスペースを指差した。以前から大家さんの荷物がアパートの共有スペースに……というか、私の部屋の横に置かれている。なぜここに? とずっと不思議に思っていたが、入居した時からこの状態だったのでそのままにしていた。年々荷物は増えていたが、生活に影響はなかったので放置していたのだ。そこの死角になる場所を見つけて夏希はノアが訪ねてくるより前からじっと待っていたという。
薔薇と血のついたナイフを持って酷薄な笑みを浮かべている夏希。
「でもさ、いくらうっかりさんでもプロポーズする相手を間違えるなんてびっくりだよね。私じゃなかったら怒ってるところだよ……私がノアの一番の理解者。ゆいちゃんもそう思うよね?」
私は夏希に刺されたらしい。
スーパーで会った時から数日もたっていないのに彼女の顔は窶れて目が窪んでいた。憎しみのこもった目で私を見ていたのだが、奪い取った薔薇に顔を近付けて一瞬うっとりして満足した顔になる。
「十二本の薔薇。ねぇ、ゆいちゃん。この花束の意味が分かる?」
「……な、んで、なっちゃん。こんな……」
「これはダーズンローズっていうのよ。十二本の薔薇には、それぞれに愛情・情熱・感謝・希望・幸福・永遠・尊敬・努力・栄光・誠実・信頼・真実って意味があってね、プロポーズの時にダーズンローズを贈ってこれらのすべてをあなたに誓いますっていうメッセージになるの。素敵だと思わない?」
薔薇を奪い取ったことで興味をなくしたのか夏希はもう私を見ていなかった。ふらふらとした足取りで階段の方へと歩き出し、「ノアったら恥ずかしがらないで直接渡してくれたらいいのに。もちろんプロポーズの返事はオッケーだよ……私はずっと貴方だけを愛してるんだから。私に二度と会わないなんて酷い言葉は嘘なんでしょ? 私の気を引くため? そうよね?」とぶつぶつ言っていた。
どうやら夏希の頭の中で自分がノアにプロポーズされたことに変換されているらしい。
カツンカツンと階段を下りて行くヒールの音を聞き、我に返った私は自分の部屋へと急いで入った。夏希が戻ってきたらどうしようと不安になりながら部屋の鍵とドアチェーンをしっかりかけた。
指先がぶるぶると震え、涙が出た。
「……痛い、誰か助けて」
小さな声で助けを求めるがここには誰もいない。私は一人だ。
傷口の深さは分からないが救急車を呼ばなければこのまま死んでしまうかもしれない。
動く度に激痛が走り、背中全体が熱く感じる。ゆっくり壁を伝って歩いて行くと「ゆいさん?」と名前を呼ばれた。
「どうしたんですか?」
壁に出来た穴の向こうからルーク君が心配そうな顔で此方を見ている。
ルーク君の姿を見たらさっきまでの恐怖が和らいでいく。そうだ私にはルーク君がいる。
狭い部屋を横切ってルーク君のところへ向かう。
ルーク君の顔色が真っ青だ。私の通ってきた所にポツポツと血の溜まりが出来ていることに、気が付いているみたい。ルーク君は此方に来れないのに、痛くて痛くて情けなく泣いてしまっている私を助けに来ようと必死になっている。行く手を遮る透明で強固な壁をがんがんと叩いていた。それでもルーク君が此方に来ることは出来ない。
痛みのせいか、それとも血が流れすぎたせいか。意識が朦朧とするなかようやくルーク君がいる世界に戻ってこれた。
壁にある穴を抜けるとすぐに抱き締められ、顔を上げるとルーク君も泣いている。
「ゆいさんっ! 大丈夫ですか? しっかりしてください」
少しずつ足の力が抜けていき自力で立っていることが出来ない。
目の前が暗くなっていく。
もう駄目だ。
「どうしてこんな怪我をしているんですか!?」
「……ごめんね、ルーク君」
もう瞳を開けていることすら出来そうにない。
「駄目だ、ゆいさんを絶対に死なせないっ……」
狭くなる視界の中でばちばちと金色の光が見えた。
最後に見たのはいつもは紫色のルーク君の瞳が髪と同じく金色に輝き、身体が発光しているところだった。まるで神様みたい。
意識が遠のき、深い深い闇の底に落ちていく。
冷たい闇の底に辿り着く前に何か優しいものに包まれた気がしたのは、私の最後の願望だったのかもしれない。




