8. 狐に睨まれたウサギ
翌日の朝食後、ソフィアは父の書斎に呼ばれた。
ここに呼ばれるときは大抵が重要な用件があるときだ。威圧感を抱いて扉を叩く。
中に入るとすでに兄がおり、二人で並んでデスクに腰掛ける父の前に立った。父は「来たか」と重苦しいため息をつきながら、片肘をついて眉間を揉んだ。見たこともないほど疲れている父の姿に、申し訳なさで心が痛む。
ルイはソフィアを一瞥してから口を開いた。
「母上はよろしいのですか?」
「あいつはこの件についてこれ以上聞きたくないと塞ぎ込んでいるからな。後で話す」
ソフィアは背筋を伸ばして二人の顔を交互に眺めた。何のことかなんて、聞かなくても知っている。
居住まいを正した父と目が合った。
「ソフィア。例の件だが、明日デミック伯爵宛に申入書を送達する」
「……確認が取れたのですね」
父は「ああ」とソフィアと同じ色の前髪をくしゃりとかき上げ、背もたれに体を預けた。年季の入った椅子がギイと軋む。いら立ちを外に逃がすようにトン、トンと中指で机を叩く。
「真っ黒だ。この短期間で二度もポティエ男爵令嬢と逢引していた」
「……え」
「我が家を舐めきっているのか何も考えていないのか、隠すつもりもなかったようでな。証言も十分に集まった」
「そう、ですか」
今まで私から誘っても、忙しいからと断っていたくせに。彼女とは二回も。そうか、彼女と会っていたから時間が取れなかったのか。
扱いの差があからさま過ぎて、悲しいと感じるより先に乾いた笑いが浮かぶ。俯いたのを泣いていると勘違いしたのか、兄の温かい手が背中を撫でた。
「もう少しの辛抱だ、ソフィ。今は辛いだろうが……」
「お兄様、猟銃の使い方を教えていただけますか?」
「だめだ、奴を殺るのは私だ」
「けち」
「けちじゃない」
「物騒な会話をやめろ、お前達」
父の苦言に兄妹はぴたりと会話を止める。二人ともすっかり同じ顔をして父を見た。
「誰に似たんだ全く」
「父上です」
「お父様とお兄様です」
「うるさい。とにかく、動きがあればまた伝える。話は以上だ、下がりなさい」
自室に戻るとすでに掃除が終わっていた。
開け放たれた窓から風が入り、白いレースのカーテンが揺れている。そこかしこに飾っている花の甘い香りが鼻をかすめていく。
枯れる前に次の花が届くので途切れることがなく、なんだか最近は体に花の香りが染み込んでいるようだ。何もつけていないのに、「ソフィア様はどこの香水を使っていますの? 私も同じものを購入したくて……」なんて聞かれることが増えた。
ソフィアは窓際に近づくと、アンティークピンクのチェストから宝石箱を取り出した。
中に入っているのは数ヶ月前の誕生日にダミアンから貰った、水色の宝石がついたフルオーダーのブローチ。ゴールドのリース型で、大きくカッティングされた石が三つと、花を模した細かい石がいくつもあしらわれている。
とても可愛くて好みのデザインだが、つけてみるといまいち似合わなかったもの。それでも貰ったときは嬉しくて嬉しくて、一日中だって眺めていられた。
宝石箱はダミアンとの婚約が決まったときに、これから色々と贈られる機会があるだろうからとルイがくれたものだ。
結局、中身はひとつしか増えなかったけれど。
(きっともう、これをつけることは無いわね)
箱の蓋をぱたんと閉じると、もうすぐ“元”がつく婚約者から貰った最初で最後の贈り物は視界から消えた。
◆
「今度の夜会は俺がエスコートするから」
午後。今日も今日とてマリーベル家にやってきたウィリアムは開口一番そう宣言した。
サロンの長椅子に座り読書に集中していたソフィアは、「へ」と間抜けな声を出して顔を上げる。
目の前で腰に手を当て仁王立ちしたウィリアムが、腰をかがめズイッと顔を近づけてきた。
なんだかちょっと不機嫌そうである。
「さっきルイから聞いた。なんで俺に言わないんだよ」
「だってウィル兄様にそこまでご迷惑をお掛けするわけにはいかないと思ったんです」
「迷惑なわけ無いだろ。それとも俺のエスコートだと嫌か?」
「そんなことはありませんが……わぷ」
鼻を摘ままれた。
「じゃあ決まりな」
「わ、分かりました。よろしくお願いします」
鼻を押さえながらソフィアが頷くとウィリアムはニコッと口角を上げ機嫌を直した。
目を白黒させているうちにあれよあれよと決まってしまった。
そこまで甘えていいのだろうかと戸惑ったが、当人が嬉しそうにしているので問題ないのだろう。
ソフィアは膝の上に広げていた本を閉じると、それを本棚に戻すため立ち上がろうと腰を浮かせて……正面をウィリアムに塞がれていたため、すとんと座り直す。
「……」
「……」
「……あの、ウィル兄様? まだ何か……?」
「ん?」
「えっと……あ、大丈夫です、私が退きますね」
ウィリアムはソフィアの目の前で仁王立ちしたまま全然動こうとしなかった。ニコニコ楽しそうに微笑んでこちらを見下ろしている。
「……?」
左に避けて立ち上がろうとすると、彼はそれを邪魔するようにソフィアの顔の横に右手を突いた。それならと反対側に動こうとすると、そちらも同じように塞がれてしまい、両腕の中にすっぽり囲われてしまった。
「ウィル兄様?」
なんだろうと思って見上げると、彼は口端は上げたまま目を細めてじっとこちらを見つめていた。
その獲物を狙うような視線から逃げようとしても、後ろにはソファの背もたれが、左右はウィリアムの両腕があり身動きが取れない。胸の前で両手の拳を握り、身体を縮こませる。
ソフィアはごくりと唾を飲み込んで、「ええと……」と目を伏せてあちこち泳がせた。何を考えているのか読めなくて、ほんの少しだけ怖い。
「――兄様はやめろって言っただろ?」
唇が耳につきそうなほど近くで、ウィリアムが囁く。ソフィアは思わず全身を強張らせて下を向いた。
「そ、あ、あれはダミアンの前での演技ですよね?」
「そうだな」
「それなら二人のときにそう呼ぶ必要はないんじゃ……」
「ある。俺がそう呼んでほしいから」
鷹の前の雀、狐に睨まれたウサギ、ウィリアムに囁かれるソフィア。彼の声が体の芯にまで入り込んできて動けなくなる。彼の右手があの日と同じように頬を撫でて、そっと上を向かせられた。
ソファに右手をつくとその上から手が重なる。
心臓はもうずっと高鳴り続けている。
至近距離で目と目が合って、頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなっていく。
「……演技、なんですよね?」
ソフィアは無抵抗のまま限界まで眉を下げて問う。
「どうだと思う?」
ウィリアムの瞳が、声が、どこか甘やかな熱を帯びていた。
目が離せない。左胸はずきずき痛いほど脈打っている。
時計の針は止まっていた。
「……わ、……分かりません……」
情けないほど震える声でどうにかそう絞り出すと、ウィリアムは片方の口角だけを上げて目を細めた。頬に当てられた手が肌を滑り、親指がソフィアの唇をふに、と押した。手が離れ、身体が離れていく。
「今はそれでいいよ」
また来るから、と続けて彼は部屋から出ていった。
「…………」
ソフィアは熱くなった顔を両手で覆うと、全身から力が抜けてずるずるとソファに倒れ込んだ。膝の上に置いていた本が床に落ちる。彼の手が触れた部分は全て甘く痺れている。
大きく息をはき切って、しばらくそのまま動けなかった。




