9. だって、どう考えても
伯爵邸の花が咲き誇る庭園の小路を、ソフィアはメイドも連れず一人で歩いていた。無理やり持たされたレースの日傘を差して迷いなく進む。
花壇にはカラフルなチューリップやアイリス、アネモネが混ざり咲き、ミツバチや蝶がひらひら舞っている。それを通り過ぎると薔薇の生け垣が現れた。甘い香りが濃くなって思わず足を止めてしまいそうになる。
それでも先に進み続けると、迷路のような空間を抜けた先に八角形の小さなガゼボが見えた。
(私でも気を抜くと迷いそうになるのよね)
迷わず辿り着けたことにほっとしつつ、日傘を閉じてガゼボの欄干に寄り掛かる。
木が風に吹かれて葉が擦れ合う音。空高く飛び姿の見えない鳥の囀り。目を閉じて耳をすませ、耳に入ってくる音だけをぼんやり聴いた。
あれから、婚約解消についての書状は無事デミック伯爵家に届けられた。しかし間の悪いことに伯爵夫妻は少し前から領地へ出向いているようで不在だった。寝耳に水の報せに仰天した伯爵家の執事が早馬を飛ばしたそうだが、領地まで丸一日はかかるらしい。
(お義父……、伯爵様はそろそろお知りになる頃かしら)
報せを受けてすぐ馬車で領地を発ったとしても、こちらに戻ってくるのに数日かかるだろう。必ず当主に渡すように、それまではたとえ当事者であろうと他者に内容を漏らさないように――と書状を受け取った執事に厳命してあるので、ダミアンが事実を知るのはまだ少し先、数日後になるはずだ。
ちょうどヴォルテーヌ侯爵家で夜会が開かれる頃。
(きっとそれが終わった頃に両家での話し合いね。そこが本番だわ)
ソフィアはぐーっと腕を前に突き出して伸びをした。どこかの関節がぱきっと軽い音を立てる。再び欄干に背中を預けて顔を上げ、ぼんやりと空を眺めた。今日もよく晴れている。日差しがぽかぽか暖かくて気持ちいい。
昨日、ダミアンから次のデートのお誘いの手紙が届いた。ついこの間会ったばかりだというのに、こんなことは今までになかった。
あの噂が効いているということなのだろう。渦中のウィリアムと直接顔を合わせたことで、何か思うところがあったのかもしれない。
適当な理由をつけて断りの手紙を出せばいいだけなのだが、それすら面倒で放置している。
びゅう、と風がガゼボの中を吹き抜けていった。そろそろ屋敷に戻ろうかと欄干から体を離したそのとき、足音が近づいてきたかと思うとその人物に話し掛けられた。
「やっと見つけた。ここにいたのか」
「ウィル兄様!?」
驚いて声のした方へ顔を向けると、ガゼボの入口にウィリアムが立っていた。
最後に会った日のことを思い出してしまい心臓がどっと跳ねる。じわ、と顔が熱くなるのを感じたが頭を横に振って自分を誤魔化す。なるべくいつも通りに振舞わないと変に思われてしまう。
何を意識してるのか自分でもよく分かっていないけど。
「相変わらず迷路みたいな庭だな」
「よくここが分かりましたね、迷いませんでしたか?」
「メイドに聞いた。この庭で昔一度迷ったからな、悔しくて覚えたんだよ」
「懐かしい。そんなこともありましたね」
まだソフィアが兄達と一緒に遊んでいた頃。
ウィリアムと二人で庭を探検しているうちに、屋敷までの道が分からなくなってしまったことがあった。怖くて不安で半泣きになったソフィアの手を、彼がずっと握ってくれていたのを覚えている。
最後にはやはり半泣きになった兄が見つけてくれて、それはもうとんでもなく叱られた。執事のお説教よりも怖くて数日悪夢にうなされた。幼い頃のほろ苦い思い出だ。
ウィリアムはガゼボに備え付けてあるベンチに座った。こちらを見ながらその横をぽんぽんと手で叩くので、一人分の半分くらい間を空けて隣に腰を下ろす。
何を話そうか少しだけ悩んで、ずっと気になっていたことを聞くことにした。
「テオドールくんの様子はどうですか? まだ半信半疑みたいだって前に聞きましたけど」
「ん、ああ。……実はあいつ、あれから自分でもコリンヌ嬢の後をつけたみたいでさ。そこで……、……」
ウィリアムはそこで一度区切ると、口元に手をやって視線を外した。苦々しい顔をして、この先をどう続けるか言葉を探しているようだった。無遠慮に話せばこちらの気に障ってしまうような内容なのだろう。
なので代わりにその先を引き継ぐ。
「……そこで、見てしまったんですね? 決定的な何かを」
「……ああ。言い逃れできないようなやつだ。それでさすがに目が覚めたみたいで、こっちも婚約解消に向けて動いてるところ」
「そうですか……」
テオドールはウィリアムの三歳下の弟で、ソフィアよりも一つ下だ。子供の頃に何度か遊んだことがあるが、最近では社交パーティで会えば挨拶をする程度だ。
侯爵家の嫡男でこそないが文武両道の秀才で将来が期待されている、目鼻立ちの整った爽やか系美少年である。
そんな素敵な婚約者がいるというのに、どうしてコリンヌは。
ソフィアが首を捻っているのに気づくことなく、ウィリアムは気まずそうに目を伏せて首元に手を当てた。
「それでさ。ソフィに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「何ですか?」
「ダミアン・デミックがヴォルテーヌ家の夜会にコリンヌ嬢を誘ったの、テオのせいなんだよ」
予想外の内容にソフィアはきょとんとして首を傾げた。なぜそこに繋がるのだろうか。
「テオのやつ、コリンヌ嬢がどう出るか見るために『急用が入って夜会には行けない』と伝えたらしい」
「それでコリンヌさんはダミアンに……」
「どっちからエスコートを持ち掛けたのかは分からないけどな。だから本当にごめん」
ウィリアムは勢いよく頭を下げた。ソフィアは慌てて、
「謝らないでください。ウィル兄様は何も悪くないですし、テオドールくんのせいでもありません。それにむしろ良かったです。ダミアンと一緒に参加しないで済んで」
そう鼻を鳴らすとウィリアムは安堵したように破顔した。
「……そう言ってもらえると助かる。当日はあいつより格好良くキメてやるから楽しみにしとけ」
「ふふ、期待してます」
片眉を下げながらウィリアムがいつもの調子で言う。だからソフィアも同じ調子で返す。深刻な話をしているというのに、流れている空気はどこか穏やかなものだった。
「そういえばウィル兄様、知ってますか。プラディロール侯爵令息は前世からマリーベル伯爵令嬢のことを愛しているそうですよ。前世で二人は結ばれず、来世で一緒になろうと誓ったそうです」
「そうだったのか、知らなかったな」
「でも生まれ変わった彼女にその記憶はなく他の人と結ばれてしまい、二人はまたしても引き裂かれてしまった。叶わぬ恋に身を焦がし毎夜枕を濡らしつつ、しかし想い人を陰から献身的に支え続けているとか」
「何の見返りも求めずに?」
「そうみたいです。彼女が幸せになってくれるならそれでいいと、毎日のように花やアクセサリーを贈っているんですって。いつか彼女が前世の記憶を思い出してくれることを願いつつ、今日も薔薇の花に想いを託すそうです」
「プラディロール侯爵令息とやらも大変だな。で何でそんな壮大な話になってんだ?」
「全然分かりません……」
ウィリアムは頭をガシガシかきながら首を捻った。その隣でソフィアも訳が分からないと頭を抱える。
『プラディロール家の嫡男はマリーベル伯爵令嬢にご執心のようだ』という社交界で流れていた噂は、いつの間にか尾びれに背びれ胸びれ腹びれついでに尻尾までついていた。
もちろんデタラメである。……ほとんどは。
「それはそうとウィル兄様から贈られてきたもので部屋が溢れそうなんです。毎日申し訳ないですし噂も大分回ってますし、もう十分かと思うんですが……」
「迷惑か?」
「そういうわけではないですけど」
「じゃあ貰っとけ。俺も贈り物選ぶの楽しいし」
「でも貰ってばかりでは悪いです。せめて何かお返しをさせてください」
いくら噂に信憑性を持たせるためとはいえ、毎日一方的に貢がれて当然だと思えるほど悪女ではないのだ。
「たとえば?」
ウィリアムの方に向き直ると、彼はソフィアの髪を一筋すくった。好き勝手に触ったり指にくるくる巻き付けたりして遊んでいる。
これだって演技の一環で。それ以上でもないしそれ以下でもない、はずだ。
……演技。
……本当に?
膝の上に置いた手をぎゅうと握る。
「……たとえば、ですけど。ダミアンとの婚約が白紙になったあと、私がウィル兄様の婚約者に立候補するのはお礼になりますか」
髪を弄んでいた手が止まった。
彼の瞳がわずかに見開かれる。
とんでもないことを言っている自覚はある。目を逸らしてしまいたくなるが逸らさない。握り込んだ手のひらにしっとりと汗が滲む。
だって、どう考えてもおかしいのだ。
どこに単なる幼馴染のためにここまで身を粉にしてくれる人がいるというのか。
自分の家にも関係するとはいえ、“友人の妹”のために自分の評判を落とすだなんて。
ただの演技であんな瞳ができるものなのか。
ずっと考えていた。もしかして、もしかしたら。ウィル兄様は。本当の本当は。
唇を食んで返事を待つ。心臓が口から飛び出しそうだった。
ほんの数秒がずっと長い時間に感じる。やがてウィリアムはおもむろに手をソフィアの目の前まで伸ばし、ソフィアが何だろうと気を取られていると。
「生意気」
「痛いっ」
ビシッと思い切りデコピンされた。
涙目になって「ひどい……」と恨みがましく彼を見上げる。
「お返しやお礼のためにそんなことされても嬉しくない。ソフィは無理しなくていいから。俺がやりたくてやってるんだから気にするな」
苦笑混じりに微笑みながら、そっと頭を撫でられる。
――無理なんかしてないのに。
でもそれは喉に留まり声になってはくれなくて、彼の耳には届かない。
「そろそろ戻ろう」と差し出されたウィリアムの大きな手を、何も言わずに取ることしかできなかった。




