2. このまま引き下がることなんて
あれから放心状態で家に帰ったソフィアは、食欲がないと言って夕食を断り部屋に引きこもった。
あの場所では我慢していたが、部屋で一人きりになった途端にじわっと込み上げてきてしまい、泣いた。そりゃもう泣いて泣いて泣いて泣いて泣いた。昼間買った可愛くラッピングされた焼き菓子が視界に入り、幸せそうな二人の顔を思い出してしまい悔しくて憎らしくて味わうことなくやけ食いした。
そのままふて寝して翌日。
まぶたを冷やさないで寝てしまったせいで目が『3』の形に腫れてしまい、ソフィアを起こしに来たメイドは悲鳴を上げた。
そんな愉快な朝を過ごして午後のティータイム。日当たりのいいサロンの中央には猫脚のソファが置かれ、細かく刺繍されたシックなカラーのクッションが山ほど積まれている。それに埋もれたソフィアがティーカップのハンドルを摘んだまま昨日のことを思い返していたときのことである。
「具合が良くないんだって? ソフィ」
急に頭上から声が降ってきた。それにハッとして顔を上げると、精悍な顔立ちをした黒髪の青年がこちらを見下ろしていた。濃青の瞳と目が合う。
「またいらしたんですかウィル兄様。お兄様ならお部屋ですよ」
「ああ、今会ってきたとこ」
青年はクッションをいくつかどかすと、少しだけ間を空けてソフィアの隣に腰を下ろした。
プラディロール侯爵家の長男ウィリアムはソフィアの兄の親友だ。幼い頃はソフィアも入れて三人でよく遊んでおり、「ウィル兄様」と呼んでよく懐いていた。
成長してからはソフィアが混ざることはなくなったが兄二人の仲は変わらず、ウィリアムはちょくちょくこうしてマリーベル家に遊びに来ている。
「顔色良くないな。目も腫れてる」
ソフィアをじっと見つめて言った。腫れはすでに大分引いており、さらに化粧で誤魔化しているからまず分からないはずなのに。現に今朝顔を合わせたとき、両親も兄も気づかなかったくらいなのに。
「ちょっと寝不足なだけですよ」
あ。ダミアンと同じ言い訳を使ってしまった。
「大丈夫だから心配しないでください。昼食は取りましたし」
ウィリアムは何も言わず、ただソフィアをじっと見つめている。見透かされているような気がして、いたたまれなくなり思わず顔を背けた。
「あの、本当に大丈夫ですから」
「いいか。こういうとき、大丈夫じゃないやつほど大丈夫だと言うんだ。そんな顔しておいて『気にするな』って方が無理あるだろ」
「……」
ぎゅ、と膝の上でスカートごと手を握る。
ウィリアムに誤魔化しは通用しない。この男は昔からそうなのだ。
ソフィアは息をひとつついてから、
「……やっぱり、ウィル兄様には敵いません」
と肩を竦めて苦笑した。覚悟を決めて口を開く。
「まだ誰にも、お兄様たちにも話してないことです。……私の婚約者のダミアンのことはご存知ですよね」
「……ああ。あいつか、デミック伯爵家の」
ウィリアムは眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
(あまりお好きではないのかしら?)
二人に繋がりがあったことに驚きつつ、ダミアンの名前を出さないことには話が進まないのでそのまま話を続ける。
「昨日、久々のデートだったんです。普段は中々会えないのでとても楽しみにしていたんです。そうしたら……」
ぽつりぽつりと昨日のことを話していく。
最初は楽しく過ごしていたこと。
ダミアンの体調が悪くなりデートを中止したこと。
「辻馬車を拾う」と帰っていった彼が心配で追いかけたら、コリンヌという名前の女性と抱き合っていたこと。
段々声が震えてきて、言葉もつっかえつっかえになっていく。昨日感じた心臓を直接握られるような嫌な鼓動と冷たさが蘇ってくる。深く息を吐いて気持ちを落ち着けようとしてもうまくいかない。得体の知れない黒いもやもやが、身体の中に留まっているのだ。
ウィリアムは黙って聞いてくれたが、徐々に眉間の皺が深くなっていった。
そして。
「――『ソフィアから僕を取ったら何も残らないから可哀想だ』と、言ってました」
「……はあ?」
顔をひどく歪め、地の底を這うような声を出した。
やっとの思いで話し終えた頃にはソフィアの手は震え、目の端には涙が溜まっていた。昨日あれだけ泣いたというのにまだ涸れていないらしい。零れ落ちないようになんとか堪える。
ウィリアムはしばらく押し黙っていたが、やがていつの間にか二人の前に置かれていた紅茶をグイッと一気に飲み干した。荒々しく親指で唇を拭う。
「潰すかそいつ」
「え?」
「何でもない。これからどうするんだ?」
「これから……」
どうすればいいんだろう。
裏切られたショックが大きくただただ落ち込むことしかできず、これからのことなんて考えることすらできていなかった。
このまま見なかったことにしても、そのうち婚約解消を切り出されるかもしれない。そうでなかったとしても、本音ではあんな風に思われていると知ってはもう彼と温かい家庭を築く自信はない。
かといって婚約解消を申し出て、両親や兄に心配を掛けたくもない。社交界デビューからは二年も経っており、今さら良い縁談が見つかるとも思えない。
「……分かりません。私、どうしたらいいのか」
ずっと信じていた。いつも優しくて、可愛いとか愛してるとか言ってくれて。あまり頻繁には会えないけれど、上手くいっていると思っていた。
全部嘘だった。
俯いていたソフィアがふと顔を上げて横を向くと、ウィリアムと目が合った。
「このままでいいのか」と、言われている気がした。
このままダミアンと結婚して、浮気されてるんじゃないかと一生怯えて過ごす。コリンヌと切れたとしても、また別の相手を見つけるのではないかと常に疑いながら。
一度も浮気をしない人間は何があっても絶対にしないように、一度道を踏み外した人間は何回も繰り返すものだ。
そもそも彼は私を愛してくれているわけじゃない。憐れんで一緒にいてあげてるなんて、どこまで人を下に見ているんだろう。
彼と婚約して一年。中々都合が合わなくて、デートは数えるほどしかしていない。手紙のやり取りだって決して多くはなかった。けれどたまに会えたときには謝ってくれて、「ソフィアと会うと元気が貰えるよ」と言ってくれた。
そんな彼を婚約者として、ゆくゆくは生涯の伴侶として支えていきたいと思っていた。
……引き返せないほど本格的に好きになる前で、よかった。
ソフィアは目を伏せて閉じ、ゆっくり開いた。握り締めたままの拳に力を入れる。
「……でも……、やっぱり私、このまま引き下がることなんてしたくない。あんなに馬鹿にされて、何もかも無かったことにするなんてできません!」
胸に手を当てて半ば叫ぶように答える。たとえ一生独り身のままだったとしても、陰で馬鹿にされながら生きていくよりずっと良い。
ウィリアムは「そう来ないと」と満足気に頷いた。
「ソフィが望むなら俺も協力するよ」
「とはいえ何をどうすればいいのか……」
婚約解消は大前提。しかしそれだけでは到底腹の虫がおさまらない。復讐とまではいかずとも、少しくらいは思い知らせてやりたい。
「……『この最低男!』って言いながらダミアンの頬を引っ叩くのは? 左右で二回……二十回、百回くらい」
「ソフィの手が痛くならない程度にしておけ」
「呪い屋に頼むとか」
「足元見られてぼったくられるぞ」
「あとはもう髪の毛を全部毟るくらいしか……」
「それはありかもしれない」
「やりませんよ」
むう、と呻ってもいいアイディアは浮かばない。幸いなことにこれまでに誰かを責め立てたことなど無かったのだ。
顎に手をやって考え込んでいると、ウィリアムが先に沈黙を破った。
「誰かがお前を求めてるって状況が一番効くんじゃないか」
「どういうことですか?」
「あいつは『ソフィアは誰からも相手にされない』って言ってたんだろ? 放っといてもどこにも行かないし誰にも盗られないと高を括ってるわけだ」
「……見せつけて焦らせるってことですか? でも、私のことをそんな風に思ってくれてる人なんていませんよ」
「俺がいるだろ」
「へ」
サラッと言ってのけたウィリアムにぱちぱち目を瞬かせる。
「その役は俺がやる」
「あ、や、役。そうですよね」
まさかウィル兄様が私を!? と一瞬びっくりしてしまった。そんなことあるはずないのに。
ソフィアは一度深呼吸をしてから話の先を促した。
「具体的には何をするんですか?」
「そうだな。あいつの目の前、それ以外でも――俺がソフィに迫って愛を囁く」
「…………はい?」
何かすごいことを言われた。
愛を囁く? 誰が誰に? ウィル兄様が私に??
頭上に大量の疑問符を浮かべたソフィアに構うことなく彼は畳み掛けていく。
「それであいつが焦ってこちらを糾弾してくるようなら、あらかじめ押さえておいた証拠をその場で全て突きつける。人前でやってくれりゃ最高だな」
「え? あの。ええと……そんなにうまくいくでしょうか? もし何も言ってこなかったら?」
「その時はその時だ」
「行き当たりばったりすぎません?」
ウィリアムは「まあなんとかなるだろ」と雑にまとめた。
「もちろんソフィに不利な噂が立たないようにだけどな。ここまでで何か質問は?」
「聞きたいことしかないんですが……どうしてウィル兄様はそこまでしてくれるんですか?」
どう考えてもウィリアムに利点はない。それどころか、下手したら『婚約者のいる令嬢に言い寄っている』と噂になってしまうかもしれないのに。
ただの幼なじみのために何故そこまで。
今度はソフィアがウィリアムをじっと見つめると、彼はばつが悪そうにそっと視線を動かした。
「コリンヌ、って言ってたんだろ。浮気相手」
「はい。小柄ではちみつ色の髪をツインテールにした……とても可愛らしい方でした」
「おそらくだがコリンヌ・ポティエ男爵令嬢だろうな」
「ご存知なんですか?」
「……弟の婚約者なんだよ」
「ええっ!?」
思わず大声を出してしまい慌てて両手で口を覆う。
しかし、だからここまで協力してくれるのかと合点がいく。侯爵家の沽券に関わる問題なのだ。
「帰ったら家族に話してみるよ。急いで証拠も集めないといけないしな」
「この計画のこともですか?」
「それはさすがに恥ずかしい」
それはそうだ。
「私も婚約を白紙にしたいと両親に話してみます」
「頑張れよ」
「頑張ります! よろしくお願いします、ウィル兄様」
ウィリアムはソフィアの頭をぽんと優しく撫で、「じゃあ明日また来るから楽しみにしておけよ」とニッと笑って帰っていった。
その背を見送り彼の姿が完全に見えなくなると、ソフィアは撫でられた部分に手を当てた。大きな手のひらの感触がまだ残っている。
なんだかとんでもないことになってしまった。
(……でも、ウィル兄様のことだもの。大げさに言っただけよね)
愛を囁くだなんて言ったけれど、きっと普段よりも少し近い距離で一言二言会話をする程度のことだろう。あくまでふりなのだから、端からそう見えてさえいればいいのだ。
さっきまでの沈んだ気持ちが少し軽くなっている。ソフィアは室内に控えていたメイドにお茶を頼むと、両親にどう切り出すかで頭を悩ませ始めた。
――それが甘い考えだったということを、ソフィアは後に思い知ることになる。




