14. 偽装から始まった恋だった
「――ということで一昨日出立して、もう王都にはいないそうです」
ソフィアはダミアンについて知っていることを説明し終えると、目の前でシュワシュワ音を立てているストロベリーソーダを口に含んだ。炭酸の爽やかさと苺の甘酸っぱさが喉を潤していき、思わずほうっと吐息を漏らす。グラスの中にはランダムにカットされた苺がいくつも入っていて、水色はほんのり赤みを帯びていた。
ソフィアとウィリアムが今いるのは王立植物園の中にある小さなカフェ。マスターの気まぐれでしか営業しないため客はほとんどおらず、窓際の席に難しい顔をして新聞に目を落としている老紳士が一人いるだけ。
二人は座面がふかふかな椅子に向かい合って座り、のんびり足を休めていた。
あの夜会の日からちょうど一週間。
ウィリアムからデートの誘いが来て、ソフィアは二つ返事で承諾した。彼から手紙を貰うなんて初めてだし、ましてや正式にデートに誘われるなんて思ってもみなかったので、返事を書くときに手が震えてしまった。
今朝は早起きして四時間かけて全身きらぴかに磨き上げてきて、胸元にはあのペリドットのブローチが輝いている。豪華すぎて単なるお出かけにつけていくのはおかしいかもしれないが、どうしてもつけていきたかったのだ。
昨日の夜も楽しみやら緊張やらでドキドキしてよく眠れなかった。そんなわけでほとんど寝ていないのに眠気は一切感じない。それどころか気持ちが高ぶっており、
「あ、悪い」
「っい、いいいいいえ」
「?」
ちょっと手がぶつかっただけで大げさに反応してしまうので、大変困っていた。
(意識しすぎだし……絶対変に思われたわ)
しかし幸いなことにウィリアムは特に気にしていないようで、自分のレモネードに口をつけている。ピンク色のソーダをもう一口飲んで気持ちを落ち着け、話の続きを訊ねた。
「そちらはどうですか? テオドールくんの様子は」
「こっちも無事に婚約解消されたよ。ああ、何日か前にポティエ男爵が謝罪に来たんだけど体縮めすぎて豆粒くらい小さくなってた」
「まめつぶ」
「テオは空元気ではあるけど……まあ、あいつなら心配いらない。一人で立ち上がれる奴だから」
「そうですか……」
あの日見た彼の姿を思い出す。涙を堪えるような、荒れ狂う暴風を無理やり押さえつけているような、歯を食い縛った横顔。実年齢よりもずっと大人びて見えた。
「ポティエ嬢はダミアン・デミックについていったらしい」
「えっ。そうなんですね」
「どのみち王都に残ってももう社交界に居場所はないからな。修道院にでも入るしか無かったろうし……まあ二人とも体の良い厄介払いだな」
「……」
ウィリアムはレモネードと一緒に口に入ってきた氷の粒をガリッと噛みながら言った。ソフィアは無言のままグラスの中を泳ぐ泡をじっと見つめる。
「制裁が生温いって納得いかないか?」
「別にそういうわけじゃ……。……いえ、どうなんでしょう」
あの二人がしたことを許すつもりはない。かといって、どん底まで堕ちて不幸になってほしいわけでもない。
だからといって二人がこのまま何事もなく結ばれて幸せになったとして、笑って許せるかというと……。
「……結局、ダミアン……いえ、あの人に私の言葉は届かなかったから。本人にそのつもりがなくても私を軽んじていたことを心から謝ってもらえなかった。きっと、それが引っかかってるんです」
もう終わったことだって、割り切れればいいんだけど。
ソフィアは口の中でそう呟いて、自分の手の甲を撫でた。
そういえばコリンヌからも謝罪はなかった。どこまでも似た者同士の二人だ。
「……ソフィ」
「なんて、暗くなってごめんなさい。結局これは私自身が乗り越えていかなきゃならないことなんです。ふとしたときに思い出したりはするかもしれないけど、自分で消化してみせます」
ウィリアムが何と声を掛ければいいか悩んでいるのが手に取るように分かったので、ソフィアはわざとらしいほどニコッと明るく笑った。彼はしばらく黙っていたが、やがてひったくるように自分のグラスを手に持ちレモネードを流し込んだ。その勢いに目を丸くしていると彼は、
「薔薇園が見頃らしいから見に行こう。今すぐ」
と、晴空のようにカラッと笑いながら手を差し出してきたのだった。
◇
見頃だという言葉通り、薔薇園では薔薇が咲き誇っていた。
真紅の花、ピンク色の花、白とピンクのマーブル模様、黄色、白、と色や品種ごとにまとまって植えられており、どこに目を向けようか迷うほどだ。
左右を薔薇が埋め尽くす小道を、二人は並んで歩く。手は繋がないで、少しだけ距離を空けて。
「綺麗ですね……それにいい匂い」
「今日はここに連れてきたかったんだ」
「調べてくれてたんですね」
薔薇の種類は詳しくないが見るのは楽しい。意外と色んな色や形があることを面白く思いながら、今までに彼から貰った薔薇は真紅のものばかりだったことに気がつく。
「そういえば、ウィル兄様が初めて贈ってくれた花も薔薇でしたね」
「ああ、やっぱり熱烈な告白といえば薔薇だと思ったからな」
「なんだかもう懐かしいです。あのとき本当に驚いたんですよ、まさかあんな大きな花束持ってくるなんて」
「最初が肝心だろ? 色も本数もすっごい悩んだし」
「やっぱり花言葉のことも考えていたんですか?」
「当然。渡すときも緊張してたんだぞ」
「全然そうは見えませんでした」
冗談めかした他愛ない会話をしながらゆっくり歩いていく。道が分かれているところに出ると、ウィリアムは「こっち」と迷いなく片方の道を選んで進んだ。
どこに向かってるんだろう。
でもなんとなく聞く気にはならなくて、彼についていく。きっと素敵なところに連れて行ってくれるんだろうと、何の疑いもなくそう思う。
そのまま歩いていくと奥まった場所に白い蔓薔薇のアーチがあり、その下には白いアイアンベンチが置かれていた。
脇にはソフィアの背丈よりも高い台座の上に、水瓶を持った天使の像が乗っている。あまり人が来なそうな隠れ家のような雰囲気の場所だった。
ウィリアムは「そこに座ろう」とベンチに腰を下ろし、ソフィアを手招きした。こんなところがあったのねときょろきょろ見回しながら隣に座る。
ベンチは意外と小さくて、普通に座るだけで肩が触れ合うくらいのサイズだった。だからもちろんドキドキして俯き……そこではっと気がついた。薔薇に囲まれて二人きり。そよ風に乗って甘い香りが漂ってきて、時折どこかからコマドリの囀りが聞こえてくる。
(想いを伝えるなら今しかないわ……!)
一気に心拍数が上がる。
人がいないと分かりきっているのに無意味にあたりをきょろきょろ見回して、すーはー呼吸を整える。片手はスカートをぎゅっと握り、片手は胸元のブローチを撫でてから、ありったけの勇気を振り絞る。
「ウィル兄様っ」
「ソフィ」
かぶった。
ぱち、と目が合った二人は「あ」とそっくりな顔で驚く。
「悪い。先にどうぞ」
「あ、いえ、ウィル兄様からどうぞ」
「そうか?」
かき集めた勇気が風船から空気が抜けるようにしゅるしゅる萎んでいく。勢いに任せないと言えないのだ。残念なようなほっとしたような気持ちになって、ソフィアは口元に手を当てて目を逸らした。
ウィリアムは咳払いをひとつしてから、「さっきのことなんだけど」と切り出す。
「ソフィの頭の中に少しでもあいつの存在があるのがムカつく」
「へ」
大真面目にそう言われ、ぽかんとして隣を見上げる。「今は仕方ないって分かってるんだけど」と彼は拗ねたように若干口を尖らせて頭をかいた。
「今日みたいに綺麗な景色のところにたくさん連れて行くし、望むことはなんだってする。だから俺のことで頭いっぱいにしててほしい」
「ウィル兄様……」
「ずっと言いたかったんだ」
彼はソフィアの胸元のブローチに一瞬だけ視線を落とし、彼女の右頬を撫でるように包んだ。
手のひらの熱が伝わってきて、すでに熱くなっていた頬の熱と交ざり合う。濃青の瞳に見つめられて、もう真っ直ぐ見つめ返すことしかできなくなる。
「子供の頃からずっと好きだった。これからもずっとお前のことだけが好きだ。だから……俺と結婚して、ソフィ」
縋るような眼差しだった。有無を言わせないような力強さと、断られることへの恐怖がない交ぜになったような。
いつか、獲物を狙う目を向けられたとき。何を考えているのかちっとも読めなくて、ほんの少しだけ怖かった。小さいころから知っている『兄様』のはずなのに、知らない男の人のように見えた。
それが今はどうだ。私の返事を待って不安そうに揺れている。あの日と同じ瞳で、こんなに雄弁に語っている。
頬を包む手に、そっと手を重ねた。
「ふつつか者ですがよろしくお願いします。私もあなたが好きです、……ウィル」
彼が息を飲む音が聞こえた。次の瞬間には抱き締められていて、目の前にチカチカ星が飛ぶ。
「ありがとう」とか「嬉しい」とか独り言のような呟きが聞こえ、骨が軋みそうになるほど腕の力が強くなる。抱き返して背中をぽんぽん叩くとビクッと体が震え、力が緩んだ。
ベルガモットの香りと彼の体温をこんなに近くに感じて、嬉しいはずなのに涙が出そうになる。
ウィリアムはソフィアの首筋に顔を埋めると、はー……と息を吐き出した。
「断られたらどうしようかと思った」
「全部終わったら聞いてほしいことがあるって言ったでしょう。私からプロポーズするつもりだったんですよ」
「……ちょっと惜しいことしたかも」
「ふふ、私は嬉しいです」
彼のやや硬めの黒髪が首に当たってくすぐったい。片手で撫でると、彼は「もっと」と甘えた声を出した。
急に子供っぽくなった彼がどうしようもなく可愛く見える。仕方ない人ねと笑って、しばらく手を優しく動かした。
「お兄様にどう報告しましょう。銃と剣と槍と弓は禁止したんですが」
「あいつどう考えても文官ってガラじゃないだろ。なんで騎士にならなかったんだ」
「それは私も思います」
「次は斧でも持ち出しそうだな……。まあこんなに可愛い妹だったら過保護にもなるか」
ウィリアムは顔を上げると、今度は彼がソフィアの頭を撫でた。
「大丈夫です、ウィルのことは私が守ります。お兄様からも他のことからも」
「ありがと。ソフィは俺が守るよ」
「頼りにしてます。あと、私がウィルを幸せにしますね」
「それは嬉しいけどちょっと違う。いや、俺もこの前そう言ったけどさ。それだけじゃなくて」
「え?」
彼の大きな手が、もう一度ソフィアの片頬を包む。ふっと肩の力を抜いて微笑った彼の青い瞳が、空より深くて綺麗だった。
「二人で幸せになろう」
額を重ねて、唇が重なる。どちらともなく指を絡め合う。赤い薔薇の花びらが一枚、重ねた手の上に舞い降りた。
偽装から始まった恋だった。
どこまでが嘘でどこからが本当かはもはや分からない。けれど、もう二人の間に演技はいらないのだ。




