13. 調子外れのオルゴール
カツ、コツ、と革靴がホールの床を叩く重い音だけが響く。息苦しいほど空気が張り詰め、声を発する者はまさかいなかった。
細身だが引き締まった体つきの美青年、というにはまだ少年の幼さを残している。テオドールはコリンヌから少し離れた正面に立つと、彼女の傍らのダミアンを一瞥して、それから寂しげな笑みを彼女に向けた。
「……残念だよコリンヌ」
「あ……テオ、さま。どうしてここに。今日は来れないって……」
「申し訳ないと思いつつあなたを試したんだ。私が来られないと知ったときにどういう行動に出るのか。デミック殿との関係を知ってしまってからも、コリンヌを信じたかった……」
「ち――違うんです、違うの、これは、」
コリンヌは恋人の腕から抜け出し、ふらふらとテオドールの元へ近づく。彼は手をかざして掌を彼女に向けた。〝それ以上近寄るな〟の合図である。
「あなたとの婚約を解消する、コリンヌ・ポティエ男爵令嬢」
顔にそぐわない冷ややかな声だった。コリンヌは息が止まり、一瞬自分が何を言われたのか分からなかった。
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――テオ様のことが好き。
顔がかっこいい。お金持ち。わたしのことを大切にしてくれてるのは伝わってくるけど……、でも言葉はたまにしかくれないし、「結婚するまでは」ってキスすらしてくれないことがちょっとだけ不満。
ダン様と知り合ったのはそんなときだった。優しくて、好きとか愛してるとか色んな言葉をくれて……だめだって頭では分かっていたけれど、あっという間に好きになってしまった。
テオ様のことがどうでもよくなったわけじゃない。ダン様はダン様、テオ様はテオ様として二人とも大好きで、どっちかを選ぶことなんてできなかった。二人から愛されていたかった。テオ様はわたしだけを愛してくれている。ダン様にも、わたしだけを見てほしかった。他の人のことは見ないでわたしだけを。
でも、もしも。もし、テオ様がご嫡男だったなら、きっとわたしは……
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だんだん身体の感覚が戻ってきて、心臓が鋭い爪で引っかかれたように痛くなって、頭の中が「どうしよう!」でいっぱいになる。
「うそ、嘘ですよね? テオさま、嘘って言って。違うの、寂しかっただけなの!」
「あなたには彼がいるだろう」
「テオ様! お願い、別れたくないです……。あなたが好きなの」
「……。さようなら」
「話せば分かるから、ねえ、話を聞いて!」
彼女が瞳を潤ませ上目遣いで見つめても、頬をほんのり赤らめても。それだけ告げるとテオドールは踵を返した。ギャラリーに頭を下げ、ウィリアムとソフィアにも軽く一礼して去っていく。必要最低限を伝えきったその横顔は固く、眉間に皺が寄っていた。
コリンヌは力が抜けてその場にへたり込み、「行かないで、やだ、捨てないで、どうして」と泣きじゃくっている。その側では茫然としたダミアンが、彼女に手を差し伸べるでもなく突っ立っていた。
ギャラリーたちは遠巻きに呆れたり目を輝かせたりしてヒソヒソ囁き合っている。明日には社交界全体に広まっているだろう。いつの間にかレベッカの姿は消えており、代わりにそれまで別室で来客の対応に当たっていた、今夜のホストたるヴォルテーヌ侯爵夫妻が大慌てでこちらに向かってきていた。
……という一連の出来事をソフィアは一歩引いたところで見ていた。そして顎に手を当て大量の疑問符を頭上に浮かべた。
(そんなに別れたくないならどうして浮気なんてしたのかしら)
純粋に疑問である。少し考えればすぐ破綻することは目に見えているのに。
それはきっと一生かかっても分からない感覚だし、分からなくていいことだろう。
何はともあれ、大事になってしまったけれどなんとか収拾がつきそうである。と気を抜きかけたところへダミアンが話し掛けてきた。
「ソフィア、婚約破棄だなんて……冗談だよね? そうじゃなきゃ自暴自棄になってるとしか思えないよ」
この期に及んで何を言ってるんだろうか。調子外れのオルゴールを聴いているような気分になって、筋肉痛を起こしそうになるほど眉を顰める。
「こんなこと冗談で、しかも人前で言うと思う?」
「だって君は……。どうするつもりなんだ、僕しかソフィアを幸せにできる男なんていないのに。ねえ、落ち着いて話し合おう?」
「これ以上あなたと話すことなんて無いわ。ほら、コリンヌさんが泣いているわよ。早く慰めて差し上げたらどう?」
「今僕が支えてあげないといけないのはソフィアだよ。きっと君は今混乱しているんだ。大丈夫、僕なら全部分かってるから引け目を感じる必要なんて無いんだよ」
全く悪いと思っていないどころか心底気遣わしげに見つめられる。カッとなって言い返そうとすると、ウィリアムに腰をグッと抱かれた。
「ソフィには俺がいるから君は何ひとつ心配しなくていい。そもそも君では力不足だ、ダミアン・デミック」
「な、」
「婚約までしていたくせに、彼女自身のことなんてちっとも見ていなかったんだな。全部分かってるだと? ハ、笑わせるな」
「僕はソフィアのためを思って」
「はっきり言わないと理解できないのか? ソフィを幸せにするのは俺だ。お前の出る幕はどこにもない」
ふわっと香るベルガモットと力強い手のひらの感触にドキドキしてしまい、一瞬で怒りが散った。それどころではない。どうしよう、もっとウエストを絞っておけばよかったかもと場違いなことが頭に浮かぶ。
しかしすぐにそんなこと考えている場合じゃないと我に返り、私も何か言わなければと元婚約者に向き直った。もう一度大きく息を吸う。
「ダミアン」
豆鉄砲を食った鳩みたいになった彼と目が合う。突き飛ばすような笑顔で言った。
「さよなら。あなたに私はもったいないわ!」
◆
侯爵家の夜会から数日経った。
昼食を食べ終えて自室でのんびりハンカチに刺繍を刺していたところで、ソフィアは父に呼ばれた。
書斎の扉をコンコンとノックして「お父様、ソフィアです」と声を掛ける。すぐに「入りなさい」と返答があった。
「失礼します。お呼びですか、お父様?」
部屋の中には父の他に母と兄も揃っていた。二つ並んだ一人掛けソファに両親が、ローテーブルを挟んだ向かいの長椅子に兄が一人で座っている。
座りなさいと短く言われ、兄の隣にすとんと腰を下ろす。父は普段よりも眉間の皺が一本ばかり減っていて、ここのところ臥せってばかりいた母は少しやつれてしまってはいるものの、今日はどこか晴れやかな顔つきで背筋をピンと伸ばしている。ルイは長い足を組み、優雅に珈琲を味わっていた。
父が咳払いをひとつすると、彼は居住まいを正してカップをソーサーに置いた。
「デミック伯爵家から正式に謝罪があった。ソフィアとの婚約は無事白紙となった」
「! そうですか。よかった……」
ごねられなかったことにほっと胸を撫で下ろす。どうかもう一度だけチャンスを、とでも粘られやしないかと冷や冷やしていたのだ。
間髪入れずにルイが聞き返す。
「先方はどんな様子だったんです?」
「見ていて憐れなほど青ざめていたな。奥方と二人で来たものだからご子息はどうしたのかと尋ねれば、」
「こんな状況になっても全く事の重大性を理解できていないものだから、これ以上非礼を重ねてはなるまいと家に留め置いて来たのですって。一体あちらはどんな教育をしてきたのかしら」
父の言葉の先を奪い、母が刺々しい口調で捲し立てた。
「え。そんな、まさか未だに何が悪かったのか分かってないとでも言うんですか? 本気で?」
「『こんなに大事になってしまって、自分に対する申し訳なさからソフィアが身を引いただけ』だと言っているそうよ。気持ち悪いったら」
「やめなさい」
父がたしなめると母はキュッと口を噤んだ。あの日感じたうすら寒さが蘇ってくる気がしてソフィアが思わず腕をさすると、ルイがそっと肩に手を回してきた。
「……彼は領地で療養するそうだ。もう顔を合わせる心配はないだろう。ソフィアもしばらくゆっくり休むといい。新しい縁談については慎重に探すこととしよう」
「それについては心配しなくていいかと思います」
「お兄様!?」
「ほう?」
兄の手の温かさに安心しきっていると爆弾をぶち込まれた。
「父上もご存知のはずです。私の友人のウィリ……」
「きゃああああ! だめ! お兄様! だめです、まだ、まだです」
尚も続けようとするルイの口をぺちっと両手で塞ぐ。彼は目をぱちぱちさせて簡単にその手を外し、真っ赤になった妹を見やった。
「まだ?」
「まだです」
「あいつそこまで意気地無しだったのか」
「ちが……います。私が、その。……」
まだ告白できてないだけで。なんて言えるわけもなく。
ソフィアがどう返そうか言葉を探してもごもご迷っていると、彼はふむ、と納得したように頷いた。
「また近々会うと言っていたな……。いいかソフィア、武器がない場合は相手の顎を狙え。前にも言ったがためらうな。あと拳を握るときは中指を」
「そんなアドバイスいりません! もう、お兄様いつもそんなことばっかり!」
「やめろお前達」
じゃれ合い始めた兄妹にため息を吐く父、それを眺めて微笑む母。すでに冷めてきた真っ黒な珈琲と湯気立ち上るティーカップの中の赤色を、窓から差し込むやわらかな陽が照らしていた。




