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三角形の輪郭(りんかく)  作者: 久遠 睦


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8/10

週末のエスケープ

1

『アジュール大阪』のメインロビーならびにラウンジのインテリアコンペを勝ち取ったという報せは、美咲の勤める商社に、かつてないほどの歓喜をもたらしていた。

月曜日の朝、オフィスに足を踏み入れた瞬間から、鳴り止まない祝福の電話と、上司たちの弾んだ声がフロアを満たしている。デスクに置かれたお祝いの胡蝶蘭の甘い香りが、これ以上ない幸福の証として、美咲の鼻腔をくすぐっていた。

「奥村先輩、本当におめでとうございます! 業界紙のトップニュースになってますよ!」

後輩が差し出してきたタブレットの画面には、美咲と藤沢のチームが勝ち取った、あの息を呑むほど美しいロビーのパースが大きく掲載されていた。

これ以上にない幸せ。二十八歳にして手に入れた、キャリアの頂点とも言える実績。

しかし、その幸福の絶頂にあっても、美咲の胸の奥には、常に一枚の冷たいガラスが差し込まれているような感覚があった。

大きな仕事が形になり、メディアへの露出が具体化していく。それは、藤沢智明という男の才能が日本中に証明されると同時に、彼が予定通り、フランス・パリへと旅立つ日が一日、また一日と確実に近づいていることを意味していた。

【香織:美咲、今週の土曜日、藤沢さんが最後の着工立ち残りのために大阪にいるみたい。……ねえ、もう一度だけ、あの三人でドライブに行きたいな。有馬の時みたいに、藤沢さんの運転でさ。】

コンペの興奮がまだ冷めやらぬ水曜日の深夜、香織から届いたメッセージ。

美咲はベッドの上で、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。

もう一度だけ、三人でのドライブ。

それは、去りゆく人との時間を引き延ばすための、往生際の悪い悪あがきかもしれない。けれど、藤沢という巨大な引力に引き寄せられ、傷つき、そして共に戦い抜いた二人の女性にとって、それはこの「三角形の物語」に本当の終わりのピリオドを打つための、どうしても必要な儀式のように思えた。

美咲が「藤沢さんに訊いてみるね」と返信し、藤沢へ連絡を入れると、彼は少しの躊躇もなく、あの心地よい低音の声で応じてくれた。

『ええ、ぜひ行きましょう、奥村さん。僕も、日本を発つ前に、もう一度だけお二人とゆっくり過ごしたいと思っていました。今度は、僕がとっておきのルートを用意しますね』

土曜日の午前九時。梅田のロータリーは、初夏の強烈な青空に包まれていた。

ハザードランプを点滅させて停車していたのは、あの日と同じ、磨き上げられた漆黒のセダン。

「おはようございます、お二人とも。今日も素晴らしい天気ですね」

運転席から降りてきた藤沢は、上質な白のリネンシャツに、ダークネイビーのハーフパンツという、驚くほど軽やかで洗練されたバカンススタイルだった。その姿は、西天満のオフィスで見せていた冷徹なビジネスパーソンとは完全に異なり、まるでこれから長い旅に出る旅人のような、自由な空気を纏っていた。

「藤沢さん、おはようございます! 今日は私が助手席、貰っちゃってもいい?」

香織が、いつもの天真爛漫な笑顔で、けれどどこか寂しさを隠すように声を弾ませた。今日の香織は、鮮やかなイエローのサマードレスを着ており、まるでひまわりのように眩しい。

「ええ、もちろんですよ、香織さん。奥村さんは後ろで、社長のようにふんぞり返っていてください」

藤沢が冗談めかして美咲のために後部座席のドアを開ける。美咲は「ふんぞり返るなんて滅相もないです」と笑いながら、シックな黒のオールインワンの裾を整えて乗り込んだ。

ドアが静かに閉まると、車内にはあの日と同じ、微かなシトラスとウッドの香りが満ちていた。

けれど、あの日と決定的に違うのは、二人の女性の間に流れる空気が、驚くほど透明で、淀みがないということだった。お互いに好意を自覚し、嫉妬に狂い、涙を流した夜を越えて、今の美咲と香織は、一人の愛おしい男性を真ん中にして、完全に手をつなぎ合っていた。

「さあ、出発しましょう」

藤沢がシフトノブをスマートに動かし、車が滑らかに動き出す。

目的地は、淡路島を縦断し、四国へと続く大鳴門橋の手前。藤沢が「世界で一番美しい境界線が見える場所」と称した、鳴門の海だった。

2

阪神高速を西へ走り、明石海峡大橋を渡ると、窓の外には言葉を失うほどのコバルトブルーの海が広がった。

車内には、藤沢がセレクトしたという、軽快でどこかノスタルジックなフレンチポップが流れている。

「すごーい!! 海、真っ青!!」

助手席の香織が、窓ガラスに顔を近づけるようにして歓声をあげる。

「藤沢さん、まじで最高のドライブルート! 有馬の温泉も良かったけど、やっぱり夏は海だよね!」

「そう言っていただけると嬉しいです。フランスへ渡ると、しばらくはこういう日本の、湿気を含んだグラデーションのある海は見られなくなりますからね。僕自身、この景色を網膜に焼き付けておきたかったんです」

藤沢はハンドルを握る指先を微動だにさせず、穏やかに笑った。

後部座席からその横顔を見つめながら、美咲は、胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。

藤沢の発する言葉の端々に、「もうすぐいなくなる」という事実が、避けることのできない未来として刻まれている。

けれど、今日の三人には、それを悲しむ空気はなかった。香織はマシンガントークで最近のアパレルのトレンドや、コンペに勝ったことで会社での自分の鼻が高くなった話を面白おかしく話し、藤沢はそれに「それは素晴らしい」と心から楽しそうに相槌を打っている。

美咲もまた、後部座席から二人の会話に加わり、時折、窓の外に広がる淡路島の新緑の山々を眺めた。

かつて、守口のマンションで香織と「ずるい」「ずるくない」と泣きながら言い合ったあの夜が、遠い幻のように思えるほど、今の三人の時間は、奇跡的なバランスで調和していた。誰のものにもならないと決めた藤沢の潔さと、それを受け入れた二人の女性のプライド。そのすべてが噛み合って生まれた、人生の「エスケープ(現実逃避)」の時間。

昼過ぎ、車は淡路島を南下し、徳島県との境界にある鳴門の展望台へと到着した。

車を降りると、激しい潮風が美咲の髪を大きく揺らした。目の前に広がっていたのは、太平洋と瀬戸内海が激しくぶつかり合い、無数の渦潮を描き出す、ダイナミックな海の境界線だった。

「素晴らしい空間ですね……」

美咲は、展望台の手すりに手をかけ、息を呑んだ。

白い波飛沫、吸い込まれそうな深い紺青、そして遠くに見える四国の山並みの淡い緑。そこには、人工の建築では絶対に表現できない、自然だけが創り出せる圧倒的な「線の美学」があった。

「ええ、本当に美しい」

いつの間にか美咲の隣に立っていた藤沢が、眼鏡の奥の目を細めて海を見つめていた。

「奥村さん、僕がなぜあなたを今回のプロジェクトのパートナーに選んだか、分かりますか?」

美咲は、驚いて藤沢の顔を見上げた。潮風に吹かれながら、彼の白いリネンシャツがパタパタと音を立てている。

「あなたの創り出す色彩には、この鳴門の海のような、二つの感情がぶつかり合う境界線の美しさがあるんです。激しい情熱と、冷徹なまでの静寂。それが絶妙なバランスで同居している。アジュール大阪のロビーには、それが必要だった。コンペに勝てたのは、必然だったんですよ」

藤沢のその言葉は、美咲にとって、どんな愛の告白よりも深く、魂を揺さぶるものだった。

彼は、一人の女性として自分を選びはしなかった。けれど、自分の表現者としての本質を、世界の誰よりも深く理解し、愛してくれていた。

「藤沢さん、私……」

美咲の声が、潮騒の音に掻き消されそうになる。

「ちょっと! 二人でカッコいい仕事の話始めないでよ!」

背後から、香織が両手にソフトクリームを持って、走ってきた。

「ほら、淡路島名物の玉ねぎソフト! 早く食べないと溶けちゃうから!」

「ハハ、香織さん、ありがとうございます」

藤沢が笑ってソフトクリームを受け取る。美咲も涙を堪えて笑い、香織の差し出した冷たい甘さを口に含んだ。

三角形の頂点たちが、夏の光の中で、眩しく笑い合っている。これ以上にない幸せな、けれど、これが最後だと誰もが知っている、切ない週末のひとときだった。

3

日が沈みかける頃、漆黒のセダンは再び明石海峡大橋を渡り、大阪への帰路についていた。

窓の外は、燃えるような茜色から、ゆっくりと紫色の夜へと移り変わっていく。マジックアワーと呼ばれる、一日のうちで最も美しい、そして最も短い境界線の時間。

楽しかった時間が終わる。その実感が、車内を徐々に支配していった。

行きにあれほど賑やかだったフレンチポップのボリュームはいつの間にか絞られ、車内を満たしていたのは、エンジンの静かな駆動音と、タイヤがアスファルトを削る規則正しい音だけだった。

香織は助手席で、疲れ果てたようにシートに頭を預け、流れる街灯の光をじっと見つめている。

美咲も後部座席で、膝の上に置いたバッグのストラップを、ただ静かになぞり続けていた。

車が阪神高速を降り、梅田のビル群へと近づくにつれて、光の粒が無数に窓の外に広がり始めた。いつもの雑多で、ぬるくて、けれど愛おしい大阪の夜の街。

「お二人とも、そろそろ梅田に着きますが、この後、どこかへ寄られますか?」

藤沢が、バックミラー越しに美咲と目を合わせ、穏やかな声で訊いた。その声は、この完璧なドライブの終わりを告げる、親切なナビゲーションのようだった。

美咲が「私は、そのまま帰ろうかな――」と口を開けかけた、その時だった。

「……藤沢さん」

助手席の香織が、不意に、低く、けれどはっきりとした声で藤沢の名前を呼んだ。

彼女は、窓の外を向いたまま、動かない。

「はい、何でしょう、香織さん」

藤沢が、少しだけ声を和らげて応じる。

香織はゆっくりと顔を戻し、運転席の藤沢の横顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、街灯のオレンジ色の光が幾重にも反射し、大粒の涙が、今にも零れ落ちそうに溜まっていた。

「藤沢さん。……私、藤沢さんのことが、本当に大好きだったよ」

香織の言葉が、静まり返った車内に、ストレートに響き渡った。

それは、あの守口のマンションで流した悔し涙でも、洗面所の前で縋り付いた時の独占欲でもない。自分の恋の終わりを完璧に受け入れ、去りゆく人への最大級の愛おしさと感謝を込めた、二十八歳の香織の、本当の「最後の告白」だった。

藤沢は、一瞬だけハンドルを握る手に力を込めたように見えた。けれど、彼は車を動かす速度を一切変えず、ただ前を向いたまま、眼鏡の奥の目を優しく細めた。

「ありがとうございます、香織さん。……僕も、あなたのその真っ直ぐな強さに、何度も救われました。あなたに好きになってもらえて、僕はデザイナーとして、一人の男として、本当に光栄です」

藤沢の言葉には、一片の嘘も、はぐらかしもなかった。彼は香織の想いを、その重さのまま、完璧な誠実さで受け止めた。

「美咲もね」

香織が、バックミラー越しに後部座席の美咲を見た。その顔は、涙で濡れていたけれど、驚くほど晴れやかで、美しかった。

「美咲も、藤沢さんのこと、まじで本気で好きだったんだからね。仕事のパートナーなんて顔して、私と同じくらい、あんたのことで頭いっぱいだったんだから」

美咲は、胸の奥から熱いものが一気にあふれ出して、視界が完全に滲んだ。

「香織……」

「分かっています」

藤沢が、静かに言った。彼は、車を梅田のロータリーの、あの最初に出会った場所へとゆっくりと滑り込ませ、ハザードランプを点滅させた。

エンジンが切られ、車内に完全な静寂が戻る。

藤沢は、シートベルトを外し、助手席の香織、そして後部座席の美咲へと、ゆっくりと身体を振り返った。

「奥村さん。香織さん。お二人のその覚悟と、僕に向けてくれた熱量を、僕はパリへ持って行きます。向こうでどんなに辛いことがあっても、大阪にこれほど僕を信じて、愛してくれた二人の美しい女性がいるという事実が、僕のこれからの背骨になります」

藤沢は、二人の目を交互に真っ直ぐに見つめ、それから、人生で一番美しい笑顔を浮かべた。

「お二人に出会えて、僕は本当に幸せでした。……ありがとうございました」

美咲も、香織も、もう言葉にならなかった。ただ涙を流しながら、何度も、何度も頷いた。

4

車のドアが開き、美咲と香織は梅田の夜風の中に降り立った。

初夏の風は、あの日と同じようにぬるく、けれどどこか清々しかった。

「では、お元気で」

藤沢が、車の窓を下げて、最後に二人に手を振った。

「奥村さん、ホテルの施工、よろしくお願いします。香織さん、レセプション、期待していますよ」

「うん! 任せといて!」

香織が涙を拭い、大きな声で答えた。

「世界一のレセプションにしてあげるから!」

「はい、藤沢さん。フランスでも、お元気で」

美咲が深く頭を下げると、漆黒のセダンはゆっくりと発進し、梅田のネオンの光の海の中へと消えていった。テールランプの赤い光が、雑踏の中に溶けて見えなくなるまで、二人はその場所から動かなかった。

「……行っちゃったね」

香織が、ぽつりと言った。

「うん。行っちゃったね」

美咲は、香織の手をそっと握りしめた。香織の手は、温かかった。

男は去った。恋は終わった。

けれど、二人の手元には、何一つ失われていない、むしろ以前よりもずっと深く、強固になった十四年間の絆が、確かに残されていた。

「美咲、お腹空かない? 久しぶりに、いつもの京橋の店行こ。大将の美味しい魚食べて、朝まで残ったワイン空けちゃおうよ」

香織が、涙の乾いた顔で、ニカッと笑った。

「うん、行こう。私が奢るよ。コンペのご褒美、たくさん出たからね」

「やった! じゃあ、一番高い中トロね!」

二人は並んで歩き出し、京阪電車の改札へと向かう階段を降りた。

二十八歳、仕事も恋も、ただ楽しいだけではいられなくなる年齢。

たくさんの傷を負い、葛藤を越えて、彼女たちは新しい形へと生まれ変わった。

男に人生を狂わされるのではない。恋を通して、大人の女性として、お互いをさらに深く愛おしく思えるようになる。

夜明けの途中にいた二人の前に、今、新しい、どこまでも透明な朝の光が、静かに差し込み始めていた。


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