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三角形の輪郭(りんかく)  作者: 久遠 睦


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9/10

第九章:夕暮れのシーソー

1

七月十五日、水曜日。

梅雨明けを告げる本格的な夏の太陽が、午前中から大阪の街を容赦なく照りつけていた。

美咲は守口市の自宅を出て、いつものように京阪電車の守口市駅から準急に乗り込んだ。車窓を流れる高架下の景色は、強い日差しに白くモヤがかかったように見え、ビルの屋上の給水タンクが陽炎の向こうで微かに揺れている。

仕事は相変わらず、分刻みのスケジュールで動いていた。

『アジュール大阪』のコンペを勝ち取ってからというもの、美咲の商社には、ホテルの経営母体であるフランスの本社からも直接、内装のファブリックに関する細かな仕様書や承認を求めるメールが英文で飛び交うようになっていた。

デスクの上に並べられた生成りの西陣織リネン。その地紋に間接照明の光をどう当てるかという最終的な施工図面をチェックしながら、美咲は一本の細い万年筆を指先で回した。

それは、藤沢が西天満のオフィスを引き払う前日、「奥村さん、これは僕からの、ささやかなバトンです」と言って手渡してくれた、ドイツ製の万年筆だった。

「奥村先輩、ホテルの意匠設計チームから、施工現場の進捗写真が共有されました」

後輩の声に、美咲は「ありがとう、見せて」と応じ、パソコンの画面を開いた。

画面に映し出されたのは、コンクリートの骨組みが剥き出しになった、まだ何もないロビーラウンジの空間。そこには、ヘルメットを被り、図面を抱えて施工業者と話し合っている藤沢の、あの見慣れた背中が小さく写り込んでいた。

これが、彼が日本で遺した最後の仕事の現場だ。

藤沢は、この一週間、文字通り不眠不休で大阪と東京を往復し、すべての引き継ぎと、コンペ案件の初期施工の監修を完璧に終わらせていた。彼の仕事ぶりには、悲壮感など微塵もなかった。ただ、世界へ向けて旅立つ一人のクリエイターとしての、圧倒的な熱量と誠実さだけが、その背中に満ちていた。

スマートフォンの時計に目をやる。午後三時四十分。

関西国際空港からパリ・シャルル・ド・ゴール空港へと向かう直行便の出発時刻は、午後七時。

あと、三時間少し。

「奥村先輩、今日の夕方のミーティングですが、少し早めに切り上げても大丈夫ですよ」

後輩が、気を利かせたように微笑みながら言った。社内の人間も、美咲が藤沢とどれほど密に仕事をしてきたかを知っている。だからこそ、彼女が空港へ見送りに行くものだと、誰もが疑っていなかった。

「ううん、大丈夫。予定通り進めて」

美咲は、藤沢から貰った万年筆を胸のポケットに差し込み、静かに微笑んだ。

「私は、ここでお留守番だから。やるべき仕事が、まだたくさんあるしね」

空港へは、行かない。

それは、あの週末の鳴門へのドライブの帰り道、梅田のロータリーで漆黒のセダンを見送った夜、香織と二人で決めた、これ以上ないほどスマートな決断だった。

あの日、車の中で、香織は本当の、最後の告白をした。

『藤沢さん。……私、藤沢さんのことが、本当に大好きだったよ』

そして藤沢もまた、二人の想いをその重さのまま、完璧な誠実さで受け止めてくれた。

『お二人のその覚悟と、僕に向けてくれた熱量を、僕はパリへ持って行きます。それが、僕のこれからの背骨になります』

あそこで、三人の三角形は、最も美しい形で完結したのだ。

今さら空港の騒がしい出発ロビーへ駆けつけ、パスポートを手にした彼の足を止めるような真似は、二十八歳の大人の女性として、あまりにも野暮だ。彼が私たちの友情を守るために誰のものでもない自分を選び、パリへ旅立つという決意をしたのなら、私たちはその決意を、それぞれの日常という名の戦場で、凛と背筋を伸ばして受け止めるべきだった。

スマートフォンの画面が震え、香織から一行だけのメッセージが届いた。

【香織:仕事、定時で終わらせた。京橋のいつもの店で待ってる。】

美咲は、資料を丁寧にファイルにまとめると、「お疲れ様でした」と声をかけて、オフィスをあとにした。

淀屋橋の駅へと続く御堂筋の地下階段を降りる足取りは、驚くほど軽かった。

恋は、叶わなかった。けれど、胸の中に広がっているのは、澱みのない、どこまでも透明な青空のような爽快感だった。

2

京橋駅の改札を抜けると、夕暮れの独特な、居酒屋のダクトから流れる焼き鳥の煙と、生ビールの匂いが混ざり合った喧騒が美咲を迎えた。

初夏の生暖かい風が商店街のアーケードを吹き抜けていく。目指すのは、あの金曜日の夜、すべての物語が始まる前に香織と座っていた、古いビルの一角にある鮮魚自慢の居酒屋だ。

暖簾をくぐると、「いらっしゃい!」という大将の威勢の良い声とともに、冷えたおしぼりの匂いが鼻腔をくすぐった。

「美咲、こっち!」

奥の小上がりから、香織が手を振っていた。

今日の香織は、アパレルのプレスの仕事を終えたばかりの、ラフな白のTシャツにデニムという姿だった。髪は無造作にお団子にまとめられており、メイクも普段より少し薄い。それは、美咲の前でしか見せない、高校生の頃と何一つ変わらない、完全なプライベートの香織の姿だった。

「お疲れ様、香織。早かったね」

美咲が席につくと、テーブルの上にはすでに、キンキンに冷えた生ビールのジョッキが二つ、置かれていた。

「まじで秒で仕事終わらせてきた。今日は、絶対に遅れたくなかったから」

香織がジョッキを持ち上げ、美咲の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、微かな緊張と、それを上回るほどの確かな覚悟が宿っている。

「じゃあ……今週も、いや、私たちの長い夏に、乾杯」

美咲がグラスを掲げる。

「乾杯」

ジョッキが重なり、カチンと鈍い音が響いた。

冷たい琥珀色の液体が喉を駆け抜けていく。その瞬間、ここ数週間の、息が詰まるほどの緊張感や、胸を引き裂かれるような葛藤が、すべて洗い流されていくような感覚があった。

「ぷはぁ……! 生き返る。やっぱり、この店のビールが世界一だわ」

香織がジョッキを置き、ぷはっと息を吐きながら、お通しのタコの酢の物に箸を伸ばした。

「大将、お造りの盛り合わせ、今日も抜群のやつお願い!」

香織が厨房に向かって声をかけると、大将が「よっしゃ、任せとき!」と威勢よく包丁を握り直した。

美咲は、手元のスマートフォンの時計を見た。午後六時四十五分。

関空のフライト情報では、パリ行きの直行便は、定刻通りの出発予定となっていた。あと十五分で、藤沢を乗せた飛行機は、日本の地面を離れ、遥か一万メートル上空の雲の向こうへと飛び立つ。

「……空港、行かなくて良かったよね」

香織が、手元のグラスを見つめながら、ぽつりと言った。その声には、寂しさよりも、自分たちの選択に対する誇りのようなものが含まれていた。

「うん、良かったと思う。私たちが関空のロビーに並んで立ってたら、あの藤沢さんのことだから、最後まで完璧にスマートな対応をしようとして、気疲れしちゃっただろうしね」

美咲が苦笑しながら言うと、香織も「確かに!」と声を立てて笑った。

「『奥村さん、香織さん、わざわざありがとうございます。向こうへ着いたら、すぐに連絡しますね』なんて言って、あの綺麗な眼鏡の奥の目で微笑むんでしょ? で、私たちが泣きそうになるのを見て、困ったように眉を投げるの。目に浮かぶわぁ」

香織は、藤沢の真似をするように首を少し傾げてみせた。その仕草があまりにも似ていて、二人は同時に吹き出した。笑い声が、居酒屋の雑多な喧騒の中に溶けていく。

「でもさ、本当に不思議だよね」

香織が、運ばれてきたマグロの中トロを口に運びながら、目を細めた。

「半年前、私が山下につきまとわれて、まじで地獄の中にいたとき、藤沢さんが現れて、鮮やかに助けてくれたじゃない。あの時の私、本当にあの人が王子様に見えたんだよ。で、三人で飲みに行ったりドライブに行ったりして、どんどん好きになって……。何でも話せるはずの美咲に、初めて嘘をつかなきゃいけなくなった時が、一番辛かった」

香織は、箸を置き、美咲の目を真っ直ぐに見つめた。

「私、美咲の家で『ずるい』って大泣きした夜、本気で美咲のことが憎かったんだよ。なんで私より先に藤沢さんと出会って、仕事でそんなに深い信頼関係築いてるのよって。男の人のことで美咲を嫌いになりかけるなんて、十四年の中で一度もなかったから、自分がどんどん醜くなっていくのが、本当に怖かった」

香織のその剥き出しの本音を、美咲は静かに受け止めた。今なら、その言葉の裏にある彼女の深い傷の痛みが、自分のことのように理解できた。

「私もだよ、香織」

美咲は、自分のビールグラスを両手で包み込んだ。

「私は、香織が藤沢さんの隣で楽しそうに笑っているのを見るのが、猛烈に怖かった。香織はいつも華やかで、自分の気持ちをストレートに伝えられるから、藤沢さんも香織のそういうチャーミングなところに惹かれるんじゃないかって、ずっと嫉妬してた。だから、仕事のパートナーっていう安全な場所に逃げて、自分は傷つかないようにしながら、藤沢さんの視線を独占しようとしてたの。本当にずるかったのは、私の方だよ」

二人は、お互いの醜さも、弱さも、すべてを白日の下に晒し合った。

かつてなら、そんなことを言えば、二人の関係は二度と元には戻らなかったかもしれない。けれど、藤沢という一人の完璧な大人の男を全力で好きになり、そして美しく振られたという共通の経験を経て、二人の友情は、傷つくことを恐れない、本当の「大人の信頼」へと昇華していた。

「大将、日本酒! ここの一番辛口のやつ、徳利で頂戴!」

香織が、目元の涙を指先で乱暴に拭いながら、笑顔で叫んだ。

「よっしゃ、瀬戸内の銘酒、いくで!」

大将が、なみなみと注がれた徳利と、二つの小さなお猪口をテーブルに置いた。

美咲は、香織のお猪口にトトト、と透明な液体を注いだ。

時計の針が、午後七時を指した。

3

「……あ、七時だ」

香織が、スマートフォンの画面を見て、小さく呟いた。

二人は同時に、箸を止め、店の小さな窓の向こうにある、京橋の暮れなずむ空を見上げた。

トタン屋根の向こう、幾重にも重なる電線のはるか上空。ここからは見えないけれど、関西国際空港の滑走路を蹴って、漆黒のセダンのような美しい機体が、今、ゆっくりと夜空へと加速しているはずだった。

「飛んだね」

美咲が、静かに言った。

「うん。行っちゃったね、藤沢さん」

香織は、お猪口を両手で持ち、窓の外の空に向かって、そっと掲げた。

「パリでも、世界一カッコいい建築、創ってよね。ずるい男」

「うん。私たちの『夜明けの境界線』を、大阪の街に残してくれたお礼に、世界中で大活躍してもらいましょう」

美咲も、自分のお猪口を香織のものとチリン、と合わせ、一気に口に含んだ。

キリリとした辛口の日本酒が、喉の奥を熱く焦がしていく。その熱さは、去りゆく人への、これ以上ないほど純粋なエールだった。

「ねえ、美咲。藤沢さんが最後にくれた言葉、覚えてる?」

香織が、お猪口を置き、少し赤くなった顔で微笑んだ。

「ええ、もちろん。忘れるわけないじゃない」

美咲は、胸のポケットにある万年筆の感触を確かめた。

『お二人のその覚悟と、僕に向けてくれた熱量を、僕はパリへ持って行きます。それが、僕のこれからの背骨になります』

「あの人さ、私たちのことを『美しい二人の女性』って言ったじゃない」

香織が、嬉しそうに肩をすくめた。

「私、たくさんの男の人に『可愛いね』とか『お洒落だね』って言われてきたけど、あんな風に、私の生きてきた人生とか、美咲との絆も含めて『美しい』って言われたの、初めてだった。あの言葉だけでさ、私の二十八歳の夏は、大成功だったなって思えるんだよね」

「うん。藤沢さんは、私たちの見た目だけじゃなくて、私たちが全力で人を好きになって、全力で傷つこうとしたその『覚悟』を、美しいって言ってくれたんだと思う」

美咲は、窓の外から差し込む、街灯のオレンジ色の光を見つめた。

「誰かを本気で好きになるって、誰かを傷つけるリスクを背負うことだって、私は香織の涙を見るまで知らなかった。ただ楽しいだけの恋愛から、一歩進んだ大人の恋を、私たちはあの人に教えてもらったんだよ」

「本当。高い授業料だったけどね、ワイン何本分よって話」

香織がケラケラと笑い、追加のだし巻き卵を注文した。

「でもさ、美咲。ホテルの着工、これからが本番でしょ? 藤沢さんがいなくなって、美咲、一人で大丈夫なの?」

香織が、少し心配そうな目で美咲を見た。

美咲は、胸のポケットから藤沢の万年筆を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。

「大丈夫。藤沢さんの設計図は、私の頭の中に完璧に残ってる。それに、チーフデザイナーの引き継ぎの時、あの人、私の前でこう言ってくれたの。『奥村さん、これからのアジュール大阪の色彩は、すべてあなたに委ねます。僕の設計を、あなたの色で完成させてください』って」

美咲の瞳には、かつての「仕事の安全圏に隠れていた会社員」の弱さは、もうどこにもなかった。あるのは、一つの巨大なプロジェクトを背負って立つ、一人の独立したクリエイターとしての、確固たるプライドだった。

「カッコいいじゃん、美咲」

香織が、自分のことのように嬉しそうに目を細めた。

「じゃあ、私も負けてられないな。レセプションのプレスアテンド、東京の編集長たちだけじゃなくて、パリの建築雑誌の日本支局の人間も巻き込むことにしたから。藤沢さんが向こうの事務所に着いた頃、日本のメディアで自分の名前がトレンドになってるのを見せてあげるの」

「ふふ、香織のその行動力、本当に藤沢さんも脱帽してたよね」

「当たり前じゃん。私を誰だと思ってるのよ。アパレル界の無敵のプレスだよ?」

二人は、再びお猪口を合わせ、笑い合った。

恋は破れ、三角形の頂点は離れていった。けれど、残された二人の底辺は、以前よりもずっと広く、深く、この大阪の地面に根を張っていた。

男一人の存在で、私たちの人生は狂わない。

私たちは、恋を通して、お互いのことをさらに深く、さらに愛おしく思えるようになったのだ。

4

午後九時を回る頃、居酒屋の中は会社員たちのグループやカップルの笑い声で、最高潮の熱気に包まれていた。

美咲と香織のテーブルの上には、空になった徳利が三本と、綺麗に平らげられた大皿の数々。

「あー、食べた食べた! 美味しかったね、美咲」

香織が、大満足の表情で伸びをした。その顔は、お酒のせいでほんのりピンク色に染まっていたけれど、目はすっきりと冴え渡っていた。

「うん、やっぱりここのお魚は裏切らない。……じゃあ、そろそろ行こっか。明日も仕事、早いしね」

美咲が伝票を手に取ろうとすると、香織がすかさずその上から自分の手を重ねた。

「ここは、私が払う。コンペに勝ったお祝い、まだちゃんとしてなかったから。美咲、本当におめでとう。あんたは私の自慢の親友だよ」

香織は、真っ直ぐに美咲の目を見て、そう言った。その言葉には、一切の躊躇も、過去のわだかまりもなかった。純粋な、心からの祝福。

「……ありがとう、香織。じゃあ、次回のレセプションが成功したら、今度は私が、新地の高めのワイン奢るからね」

「やった! 約束だからね、高めのやつだよ!」

香織はスマートにお会計を済ませ、二人は暖簾をくぐって夜の京橋の街へと出た。

アーケードの外に出ると、夜空には、先ほどの夕焼けの残光はもうどこにもなく、深い、深い漆黒の夜が広がっていた。けれど、街灯の光やビルのネオンが、まるでお互いを引き立て合うように、街全体をキラキラと美しく輝かせている。

駅の改札へと向かう階段を、二人は肩を並べて一歩ずつ登っていった。

「ねえ、美咲」

階段の途中で、香織がふと足を止め、夜空を見上げた。

「藤沢さん、今頃どの辺を飛んでるのかな。まだ日本のフォロワー圏内かな」

「さあ、どうだろう。でも、きっと雲の上は、ものすごく綺麗な星空だよ」

美咲も立ち止まり、香織の隣で同じ空を見上げた。

「私たちさ、これからも色んな人と出会って、色んな恋をして、そのたびにこうして京橋で朝まで飲むんだよね」

「うん。男の趣味がまた被ったら、その時はまた、ここで正々堂々キャットファイトしよ」

「あはは! 望むところだよ! 次は絶対に負けないからね!」

香織が、ケラケラと声を上げて笑った。その笑い声は、夜の京橋の喧騒の中に、どこまでも爽やかに響き渡っていった。

改札を抜け、それぞれのホームへと向かう分岐点。

「じゃあね、美咲。また明日、LINEする。中身のない、くだらないやつ」

「うん、待ってる。香織、気をつけて帰ってね」

二人は、笑顔で小さく手を振り合い、それぞれの方向へと歩き出した。

美咲は守口行きの電車のホームへと向かう通路を歩きながら、胸のポケットにある藤沢の万年筆に、そっと手を触れた。

二十八歳、仕事も恋も、ただ楽しいだけではいられなくなる年齢。

私たちは、一つの美しい三角形を失ったけれど、その代わりに、何者にも壊されることのない、一生モノの、新しく生まれ変わった友情の設計図を手に入れた。

窓の外を流れる大阪の夜景を眺めながら、美咲は静かに目を閉じた。

夜明けの途中にいた彼女たちの前に、今、どこまでも透明で、強固な、新しい朝の光が、確かに差し込み始めていた。28歳の夏は、ここから、また新しく始まっていくのだ。


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