三つのグラス、最初の乾杯
1
コンペという巨大な山を登りきった高揚感は、中之島の国際会議場を出た瞬間、夏の強烈な日差しの中に霧散していった。
役員たちの熱い拍手、総支配人が見せた満足げな微笑み。それらは確かに、自分たちのクリエイティブが届いたという確固たる手応えだった。けれど、タクシーのドアが閉まり、中之島のビル群が車窓の後方へと遠ざかっていくにつれて、美咲の胸には、また別の、ひやりとした寂しさが満ち始めていた。
大きな仕事が終わる。それは同時に、藤沢智明という男がこの国を去るためのカウントダウンが、本格的に始まってしまったことを意味していた。
「……ねえ、美咲。藤沢さん、なんて?」
後部座席の隣に座る香織が、スマートフォンの画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
美咲は自分のスマートフォンをバッグから取り出した。画面には、プレゼン直後に藤沢から届いたメッセージが残っている。
【藤沢:奥村さん、香織さん、本日は本当にありがとうございました。お二人のおかげで、悔いのないプレゼンができました。コンペ後の打ち上げについてですが、大変申し訳ありません。来週の審査結果の発表が下りるまでは、僕も事務所の整理や先方との最終調整で身動きが取れそうにありません。結果が出たその夜、改めて僕からお二人をご招待させてください。それまで、どうか少し身体を休めてください。】
それは、どこまでも藤沢らしい、非の打ち所のない「お断り」だった。
本当に仕事が立て込んでいるのも事実だろう。フランスへ移籍するためのビザの手続き、西天満のオフィスのクローズに向けた契約の数々。けれど、美咲にも香織にも分かっていた。藤沢はあえて、この一週間という時間を「空白」にすることで、三人の感情の温度を一度、平熱へと戻そうとしているのだ。
コンペが終わった直後の、あの熱を帯びた空気の中で三人で会えば、また何かが狂い出してしまうかもしれない。お互いへの好意と、去りゆく人への執着が、綺麗に描き直したばかりの「友情の設計図」を歪めてしまうかもしれない。藤沢のその徹底したセルフコントロールは、どこまでもスマートで、そしてやはり、少しだけ残酷だった。
「……結果が出るまでお預け、か」
香織が自嘲気味に笑い、スマートフォンの画面を消した。
「最後まで焦らしてくれるよね、あの人。コンペが終わったら、真っ先に新地のバーで祝杯をあげるつもりだったのに」
「仕方ないよ。藤沢さん、一人で全部の片付けをしてるんだから」
美咲は、守口市駅へと向かう京阪電車の座席に揺られながら、窓の外の景色を見つめた。
線路沿いに並ぶ古い住宅の屋根、遠くに見える生駒の山並み。見慣れた大阪の風景が、なぜかいつもより少しだけ寂しく見えるのは、気のせいではないはずだ。
「でもさ、美咲」
香織が、美咲の肩に頭をこてんと預けてきた。高校の帰り道、よくこうして電車の中で寄り添い合っていた。
「この一週間、まじで生殺しだね。仕事のコンペの結果も気になるし、それが終わったら藤沢さんが本当にいなくなっちゃうんだなって思うと、なんだか心にぽっかり穴が空いたみたい」
「うん。……そうだね」
美咲は香織の細い髪に触れた。
恋の熱は、去りゆく人の決意によって、穏やかな親愛へと形を変えつつある。けれど、その後に残る「寂しさ」だけは、どうしようもなかった。二十八歳の二人は、その名前のない一週間の猶予を、ただ静かに抱きしめるしかなかった。
2
コンペの発表までの七日間は、三人の人生において、奇妙な「エアポケット」のような時間だった。
美咲の勤める商社では、プレゼンが無事に終了したことで、一時の平穏が訪れていた。デスクの上に山積みにされていたファブリックのサンプルやカラーチップは、後輩たちによって丁寧に棚へと戻され、オフィスにはいつもの日常のキーボードの打鍵音だけが響いている。
「奥村先輩、本当にお疲れ様でした。あとは結果を待つだけですね」
後輩が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、美咲は「そうだね」と微笑んだ。
手持ち無沙汰な時間が生まれると、どうしても意識は西天満のオフィスへと向かってしまう。藤沢は今頃、あの広いフロアで一人、図面をシュレッダーにかけたり、フランス語の契約書と格闘したりしているのだろうか。
週の中頃、美咲は仕事の帰りに、ふと思いついて守口市駅の近くにある大型書店に立ち寄った。
普段はインテリアや建築の専門書のコーナーにしか足を運ばない彼女が、その日は無意識のうちに、語学書の棚の前に立っていた。
『初めてのフランス語』『旅のPARIS』
色鮮やかな表紙の数々。美咲はその中の一冊、パリの美しい街並みの写真が載ったガイドブックを手に取り、ページをパラパラとめくった。
セーヌ川の夕暮れ、古いアパルトマンの窓枠、カフェのテラス席。
そこは、藤沢がこれから生きる世界だ。自分たちが創り上げた日本の『大人シンプル』な空間を遺して、彼はあの歴史の厚みがある美しい街へと旅立っていく。
「……遠いな」
美咲は、小さく呟いて本を棚に戻した。
彼がパリへ行くことを選んだからこそ、自分と香織の友情は守られた。彼は三人の関係を壊さないために、自ら遠い世界へとフェードアウトしていく。その優しさの重みを思えば、彼を日本に引き止めたいなんて、間違っても言ってはいけない。
同じ頃、香織もまた、心斎橋のオフィスで静かな戦いを続けていた。
いつもなら、次のシーズンの展示会の準備で大声を張り上げているはずの彼女が、その週はパソコンの画面を前に、じっと黙り込んでいることが多かった。
【香織:美咲、今夜うちに来ない? 久しぶりに、私がご飯作るわ】
水曜日の午後七時、香織から届いたメッセージ。
美咲は「行く」とだけ返し、地下鉄に乗り込んだ。
香織のマンションは、彼女のキャラクターを表すように、カラフルでポップな、けれど不思議と居心地の良いインテリアで統一されていた。玄関を開けると、出汁の優しい香りが漂ってきた。
「おかえり、美咲。今、肉じゃが作ってたところ」
エプロン姿の香織が、キッチンから顔を出した。
「香織が肉じゃがなんて、珍しいね。いつもはタイカレーとかパスタなのに」
美咲がソファにバッグを置くと、香織は「なんかさ、落ち着いたものが食べたくなっちゃって」と苦笑した。
テーブルに並んだのは、丁寧に面取りされたジャガイモの肉じゃがと、ほうれん草のお浸し、そして炊きたてのご飯。いつもなら、ワインやビールで乾杯して始まる二人の夜が、その日はまるでお互いの傷口を確かめ合うような、静かな食卓になった。
「……ねえ、美咲」
香織が、箸を持ったまま、ぽつりと言った。
「藤沢さんがいなくなったら、私たち、また前みたいに二人で、なんでもない話をして笑えるのかな」
美咲は、肉じゃがの湯気を見つめた。
「笑えるよ。だって、私たちは高校の時からずっと一緒だったんだもん。藤沢さんと出会う前も、たくさんの男の人に振られて、そのたびに二人で朝まで飲んで笑い飛ばしてきたじゃない」
「うん。でもね、今回の失恋は、今までのとはちょっと違う気がするの」
香織は、寂しそうに目を細めた。
「今までは、男の人に振られたら『あいつ、見る目ないわ!』って怒れたでしょ? でも、藤沢さんに対しては、感謝しか出てこないの。私たちをあんなにストーカーから守ってくれて、私たちの気持ちに真っ直ぐ向き合ってくれて、最後は私たちのために、自分が悪者になって去っていこうとしてる。あんなに綺麗な振られ方しちゃったらさ……次の恋、どうやって始めればいいか分かんなくなっちゃうよ」
香織のその言葉は、美咲の胸の奥にも、深く深く突き刺さった。
誰も傷つけないための大人の決断。それは、二人の女性の心に、生涯消えることのない「完璧な男」の残像を植え付けることでもあった。藤沢智明という男のスマートさは、去りゆく瞬間まで、彼女たちの心を捉えて離さない。
「……一週間って、長いね」
美咲が言うと、香織は「本当に。コンペの準備をしてた時は、あんなに一瞬だったのにね」と、小さく笑った。
二人は、静かにご飯を食べ進めた。
窓の外からは、夏の夜の虫の声が、微かに聞こえていた。
発表まで、あと二日。三角形の終わりの時が、静かに、確実に近づいていた。
3
金曜日の午後五時。
オフィスでのデスクワークを終えた美咲のスマートフォンが、これまでにない激しい振動を始めた。
画面に表示されたのは、『フロンティア・デザイン 藤沢智明』。
美咲は、一瞬だけ息を止め、それから慌てて会議室へと駆け込んで通話ボタンを押した。
「……もしもし、奥村です」
『奥村さん、藤沢です』
彼の声は、いつも通りの低い、けれどどこか弾んだトーンを帯びていた。その響きだけで、美咲はすべてを察した。
『先ほど、ホテルの総支配人から直接連絡がありました。……僕たちの提案が、最優秀賞に選ばれました。コンペ、勝ちましたよ』
心臓が、ドクンと大きく波打ったあと、全身に熱い血が巡っていくのが分かった。
「……本当、ですか? 本当に、私たちが……?」
『ええ。奥村さんのファブリックの提案が、海外の審査員からも満場一致で高く評価されたそうです。僕たちの『夜明けの境界線』が、アジュール大阪の新しい顔になります』
藤沢の声には、めずらしく明確な興奮が混ざっていた。クリエイターとして、自分の設計が認められたことへの、純粋な喜び。
「藤沢さん……ありがとうございます。私、本当に、嬉しいです……」
美咲の目から、堪えていた涙が溢れ出た。この三週間、張り詰めていた緊張と、香織との葛藤、そして藤沢への想い。そのすべての感情が、コンペの勝利という最高の形で報われた瞬間だった。
『香織さんにも、今、メッセージを送りました。……約束通り、今夜、お二人をお祝いの席にご招待させてください。午後七時に、西天満のオフィスの下で待ち合わせましょう。僕の最後の、タスクです』
「はい。喜んで、伺います」
通話を切り、美咲はすぐに香織にLINEを送った。
画面を開くと、すでに香織から【美咲!!! 勝った!!! 藤沢さんから連絡きた!!! 今すぐ準備して西天満行く!!!】という、画面からはみ出しそうなほどのメッセージが届いていた。
美咲は涙を拭い、オフィスの自席に戻って素早く片付けを済ませた。
今日の美咲は、この日のためにあらかじめ用意していた、深いグリーンのサテンのブラウスに、黒のタイトスカートという装いだった。過度な装飾はせず、けれど二十八歳の大人の女性としての品格と艶やかさを意識した、完璧なコーディネート。
京阪電車の準急に乗り、天満橋で下車して西天満へと歩く。
夏の夕暮れの街は、コンペ前夜のあの重苦しさが嘘のように、輝いて見えた。
オフィスのビルの前に到着すると、そこにはすでに香織の姿があった。
今日の香織は、目の覚めるような白いレースのセットアップを身に纏い、まるでレセプションパーティーに臨む主役のような華やかさを放っていた。
「美咲!!」
香織が美咲の姿を見つけると、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。
「やったね! まじでやったね! 私たちのインテリアが、大阪の一等地で形になるんだよ!」
「うん、香織がメディアのルートを耕してくれたおかげだよ。本当にありがとう」
二人は、ビルの下で固く手を握り合った。
「お二人とも、おめでとうございます」
背後から、あの心地よい声がした。
振り返ると、ビルのエントランスから、藤沢が歩いてくるところだった。
今日の彼は、黒のタキシード風のジャケットに、白のノーカラーシャツという、息を呑むほどドレッシーでスマートな姿だった。眼鏡の奥の目は、優しく、そしてどこか晴れやかな光を宿している。
「藤沢さん……!」
香織が声を弾ませる。
「さあ、行きましょう。今夜は、僕たちの最高の勝利を祝う夜です。僕が、とっておきのお店を予約してあります」
藤沢は、二人のために流しのタクシーをスマートに止め、ドアを開けて待ってくれた。
三人を乗せたタクシーは、夕暮れの大阪の街を、光の海へと向かって滑り出していった。
4
藤沢が連れて行ってくれたのは、中之島の川沿いに佇む、歴史的建造物をリノベーションした最高級のフレンチレストランだった。
案内されたのは、川に面したテラス席に続く、完全なプライベート個室。大きなガラス窓の向こうには、ライトアップされた中央公会堂と、堂島川の水面がキラキラと美しく輝いている。
テーブルの上には、美しく磨き上げられたカトラリーと、三つのクリスタルグラスが静かに並んでいた。
「お二人とも、本当におめでとう。そして、ありがとうございました」
藤沢が、店員に注がせた最高級のシャンパンのグラスを掲げた。
「おめでとうございます! 乾杯!」
「乾杯!」
チリン、と繊細なガラスの音が個室に響き渡る。
冷たい泡が喉を潤すとともに、三人の心に、これまでにない爽快な風が吹き抜けていった。
運ばれてくる料理は、どれも芸術品のように美しく、そして驚くほど繊細な味わいだった。
会話は、自然と今日のコンペの審査員たちの反応や、これからの施工に向けたスケジュールの話で盛り上がった。
「総支配人がね、奥村さんの提案した西陣織のリネンを見て『これこそが、アジュールが求めていた“東洋の静寂”だ』って大絶賛していたんですよ」
藤沢が、本当に誇らしそうに美咲を見つめて言った。
「嬉しいです。でも、それをあの完璧な空間スケールに落とし込んでくださったのは、藤沢さんの設計です。私一人では、絶対にあの光の表現はできませんでした」
美咲が答えると、香織もすかさず割って入った。
「ちょっと、デザイナー二人で褒め合わないでよ! 私のPR戦略だって、完璧だったでしょ? 審査員の中に、私が事前にアプローチしてた雑誌の顧問がいたんだから。あの人が裏で推してくれたのも、絶対大きいよ」
「ハハ、もちろん分かっていますよ、香織さん」
藤沢は声を立てて笑い、香織のグラスに新しくワインを注いだ。
「香織さんの行動力には、本当に脱帽です。お二人がいなければ、僕は日本での最後の仕事を、こんな最高の形で締めくくることはできませんでした。……心から、感謝しています」
藤沢の「最後の仕事」という言葉に、テーブルの空気が、一瞬だけぴりりと切なさを帯びた。
けれど、今夜の二人は、もう泣かなかった。
「藤沢さん、パリへはいつ発たれるんですか?」
美咲が、静かに訊いた。
「来月の十五日の便です」
藤沢は、窓の外の堂島川の夜景を見つめながら答えた。
「オフィスの引き払いは今月末に終わります。その後は、ホテルの着工の立ち会いをして、チーフデザイナーとしての引き継ぎを終えたら、そのまま向こうへ渡ります」
「そっか……。あと一ヶ月ちょっと、だね」
香織が、寂しそうに微笑んだ。
「藤沢さんがいなくなったら、西天満のあのオフィスも、なくなっちゃうんだ。なんだか不思議だな。あそこで三人で、ストーカーの相談をしたり、ドライブの計画を立てたりしてたのが、ずいぶん昔のことみたい」
「空間はなくなっても、僕たちが創り上げた『夜明けの境界線』は、この大阪の街に永遠に遺ります」
藤沢は、二人の目を真っ直ぐに見つめた。
「そして、僕がお二人のことを素晴らしい女性だと知ったという事実も、僕の心のなかに一生遺り続けます。……僕は、お二人に出会えて、本当に幸せでした」
藤沢の、それは一足早い、完璧な別れの言葉だった。
彼は最後までスマートで、最後まで誰一人のものにもならず、けれど、二人の女性の心に、最大限の敬意と愛おしさを遺して去っていこうとしていた。
「私たちも、幸せでした」
美咲は、涙を堪えて、真っ直ぐに藤沢の目を見つめ返した。
「藤沢さんを好きになれて、本当によかった。私、あなたと出会って、仕事の面白さも、自分の心に嘘をつかない強さも、全部教えてもらいました。パリに行っても、世界中をあっと驚かせるような、最高の建築を創り続けてください」
「うん、私も!」
香織が、グラスを掲げて笑った。
「藤沢さんが向こうで有名になったら、私、パリまでインタビューしに行っちゃうからね。その時は、一番いいカフェのテラス席、予約しといてよ?」
「ええ、約束します、香織さん。その時は、最高のシトラスのカクテルをご馳走しますよ」
藤沢は優しく微笑み、三本のグラスが、再び静かに重なり合った。
恋は終わった。三角形の輪郭は、それぞれの未来へと、美しく解けていく。
中之島の夜風が、ガラス窓の向こうで激しく吹き抜けていた。
二十八歳、私たちが選んだ、これが私たちの「一番美しい終わり方」。
三人の笑顔の向こうには、新しく生まれ変わった、どこまでも透明で強固な未来への境界線が、確かに描き出されていた。




