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三角形の輪郭(りんかく)  作者: 久遠 睦


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5/10

グラス越しの最適解

1

藤沢智明(ふじさわ ともあき・31)は、自他ともに認める「論理の人」だった。

大学で建築とインダストリアルデザインを学び、大手設計事務所で数々の実績を積んだ後、三年前、満を持してフロンティア・デザインを立ち上げた。

彼の仕事の流儀は極めてシンプルだ。クライアントの曖昧な要望を徹底的に分析し、予算、構造、法規、そして美観というすべてのピースがピタリとはまる「最適解」を導き出すこと。そこに個人の身勝手な感情や、予定調和な妥協が入り込む余地はなかった。

仕事において、彼は常に完璧なゲームメーカーだった。

しかし、そんな彼の強固なコンクリートの壁に、予期せぬ亀裂を入れたのが、奥村美咲と、その親友である香織という二人の存在だった。

割烹の個室で美咲が去った後、藤沢はしばらくの間、微動だにせずカウンターのグラスを見つめていた。

美咲が飲み干したグラスの底には、ほんの少しの日本酒が残り、白木のテーブルに小さな輪の染みを作っている。

『藤沢さんは、誰も傷つけないために、あの綺麗な「三角形」のままでいようとしてくださっています。でも、その結果、香織は一人で傷ついて、私との十四年間の友情も、今、壊れかけているんです』

耳の奥で、彼女の静かな、けれど刃のように鋭い言葉がリフレインしていた。

藤沢は眼鏡を外し、おしぼりで顔を覆った。ふっと漏れた溜息は、自分自身の「傲慢さ」に対する嫌悪に満ちていた。

誰も傷つけない「最適解」を選んでいたつもりだった。

あの京橋のコンビニで香織を救い出した夜、彼は一人の男の暴挙を社会的なマナーと論理で鮮やかに退けた。あの時、恐怖に震える香織を助手席に乗せ、それを必死に支える美咲の姿を見て、藤沢の胸にはビジネスを超えた強い感情が芽生えていたのは事実だ。

香織は、夏の太陽のように眩しい女性だった。

感情がストールをすり抜けてそのまま言葉になり、嬉しいときは少女のように跳ね、傷ついたときは世界が終わったかのような顔をする。プレスのプロとしての華やかさの裏にある、その圧倒的な無防備さに、男として庇護欲を掻き立てられないはずがなかった。

一方で、美咲は、静謐な夜の海のような女性だった。

仕事で見せる彼女の色彩感覚、引き算の美学、精度を重んじる知性。彼女と会議室で図面を挟んで向かい合っている時間は、藤沢にとって、独立以来最もエキサイティングで、心地よい時間だった。

だからこそ、選べなかった。

どちらか一人を選ぶという設計図は、もう一人の存在を完全に否定し、彼女たちが十四年かけて築き上げてきたという「一生モノの友情」を、自分の存在というノイズで破壊することを意味する。

藤沢は、三人でいる空間を完璧にコントロールことで、誰も傷つかない美しいモニュメントを維持しようとした。あの有馬へのドライブも、京橋のイタリアンも、彼にとっては完璧な「調和」の演出だったのだ。

しかし、美咲に指摘されて初めて気づいた。

自分のその行動は、優しさなどではなく、ただ「自分が悪者になりたくない」という卑怯なエゴに過ぎなかったのだと。二人の大人の女性が、自分に対してどれほどの熱量と覚悟を持って向き合っていたか。それを知りながら「綺麗な三角形」に閉じ込めようとした自分こそが、彼女たちの関係を最も残酷に侵食していたのだ。

「……マスター、チェックを」

藤沢は財布を取り出し、スマートに会計を済ませると、夜の西天満の街へと出た。

初夏の風が、彼の熱くなった額を冷やしていく。

スマートフォンを開くと、数日前に香織から届いた、未読のままのメッセージが画面に表示されていた。

【香織:藤沢さん、先日はごめんなさい。困らせるようなことを言って。でも、私の気持ちは本当です。また、三人で笑って会える日が来たらいいな。】

そして、今、目の前で凛とした声で告白していった美咲の、真っ直ぐな瞳。

藤沢は、自分が人生で初めて、論理では絶対に解けない「三体問題」の渦中に立たされていることを痛感していた。

2

翌週の月曜日。

守口市の自宅を出た美咲は、京阪電車の守口市駅のホームに立っていた。

滑り込んできたのは、見慣れたブルーのラインの準急電車。金曜夜の喧騒が嘘のように静まり返った月曜朝の車内で、美咲はドア近くの手すりに寄りかかり、ほっと息をついた。萱島や寝屋川方面からの通勤客でそれなりに混み合う車内、吊り革を掴みながら、彼女はスマートフォンの画面を一度も開かなかった。藤沢に告白したあの夜から、香織からの返信はまだない。藤沢からも、仕事の事務的なメール以外、プライベートな連絡は一切なかった。

「これで良かったんだ」

美咲は自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。高架下の街並みが窓の外を早く流れていく。

結果がどうなろうと、あのぬるい夜の中に隠れ続けるよりはマシだった。自分の心に誠実であることの代償が、この耐え難い孤独なのだとしたら、二十八歳の自分はそれを引き受けるしかない。

オフィスに到着すると、デスクの上には、フロンティア・デザインから届いた一通のレターパックが置かれていた。

美咲が怪訝に思いながら封を切ると、中から出てきたのは、次回のコンペ用の最終修正図面と、一枚の小さな便箋だった。

『奥村美咲様

先日は、僕の至らなさをご指摘いただき、ありがとうございました。あなたの言葉は、僕の目を覚まさせてくれました。

今週の金曜日、夕方五時から、プロジェクトの最終確認を兼ねて、僕のオフィスでお話をさせていただけないでしょうか。今回は、ビジネスとしてではなく、一人の男として、奥村さん、そして香織さんと向き合いたいと思っています。

勝手なお願いですが、香織さんにも、僕から同じ連絡を入れてあります。

三人で、もう一度話をさせてください。

藤沢智明』

藤沢の、几帳面なフォントのような文字。

美咲は、その便箋を持つ指先が、微かに震えるのを止められなかった。

藤沢は逃げなかった。自分のエゴを認め、三人の関係に、彼なりの方法で決着をつけようとしている。

「三人で、もう一度」

それは、この歪んだ三角形に、本当の終わりの線を引くための招待状だった。

美咲はすぐにスマートフォンを取り出し、十四日ぶりに香織のメッセージ履歴を開いた。

そこには、美咲が打ち込もうとした瞬間に、香織からの着信が表示された。

「……もしもし、香織?」

画面をスライドさせると、受話器の向こうから、聞き慣れた、けれど少し大人びた香織の声が聞こえた。

『美咲……。藤沢さんから、連絡、きた?』

「うん、今、手紙を読んだところ」

『私、猛烈に怒ってるんだからね、美咲に』

香織の声は、震えていた。けれど、そこにはあの夜の絶望的な冷たさはなかった。

『あんなにずるいって言ったのに、本当に藤沢さんに告白しちゃうなんてさ。まじで男前すぎるでしょ、あんた』

「香織……」

美咲の目から、不意に涙が溢れそうになった。オフィスのフロアで声を殺しながら、必死に言葉を紡ぐ。

『私さ、あの後、ずっと考えてたの。美咲の家を出て、自分の部屋で一人でワイン飲んで、美咲から届いたLINEを見て……。私、藤沢さんのことが大好きだけど、美咲のいないこれからの人生なんて、一ミリも想像できなかった』

受話器の向こうで、香織が鼻をすする音が聞こえた。

『男一人のために、十四年の背骨を折るなんて、私たちまじでバカじゃんって。……だから、金曜日、行くよ。西天満。藤沢さんがどんな答えを用意してるか知らないけど、二人で一緒に聞きに行こう』

「うん……。一緒に行こう、香織」

美咲は、涙を拭いながら、力強く頷いた。

完璧な友情が戻ったわけではない。傷跡は確かに残っている。けれど、二人は再び、同じ地平に立って、正面から未来に向き合おうとしていた。

3

金曜日の午後五時。

西天満にあるフロンティア・デザインのオフィスは、夕方の斜光を浴びて、静まり返っていた。

スタッフは全員、藤沢の指示であらかじめ退社させられており、広いフロアには、打ち合わせ用の大きなガラス天板のテーブルと、三つの椅子だけが用意されていた。

美咲と香織は、オフィスのビルの下で合流し、並んでエレベーターに乗った。

今日の美咲は、白いシルクのブラウスに、黒のテーパードパンツ。香織は、落ち着いたネイビーのセットアップ。お互いに、かつてのような「やる気のない戦闘服」ではなく、自分自身のアイデンティティを最も美しく表現する、大人の装いを選んでいた。

「緊張する?」

オフィスのドアの前で、香織が小声で訊いてきた。あの梅田のダイニングバーの前で訊かれたのと、全く同じ質問。

「うん。でも、怖くはないよ」

美咲が香織の目を見て微笑むと、香織も「私も」と強く頷いた。

ドアをノックし、中に入る。

「いらっしゃい。お待ちしていました」

藤沢が、テーブルの奥から立ち上がった。今日の彼は、スーツではなく、仕立ての良い黒いシャツの袖を少し捲り上げた、極めてリラックスした、しかし隙のない姿だった。

「お二人とも、お忙しい中、集まっていただきありがとうございます。どうぞ、お座りください」

藤沢は、美咲と香織に、並んで座るように椅子を引いた。自分は、その正面に腰を下ろす。

テーブルの上には、冷たいミネラルウォーターのグラスが三つ、静かに並んでいた。

藤沢は眼鏡を外し、デスクの上に置くと、二人を交互に真っ直ぐに見つめた。

「まず、お二人に深く謝罪させてください」

藤沢は、深く頭を下げた。

「僕は、自分のエゴで、お二人の純粋な気持ちを弄んでいました。誰も傷つけないという綺麗事を隠れ蓑にして、自分が傷つくこと、そしてどちらか一人を選んで関係を変えてしまうことから、逃げていただけだったんです。奥村さんに指摘されるまで、その僕の卑怯な態度が、お二人の大切な関係を最も追い詰めていることに気づけませんでした。本当に、申し訳ありません」

藤沢の言葉には、一片の嘘もなかった。プロのビジネスパーソンとしてのプライドをすべて捨て去った、一人の男としての、痛切な反省だった。

香織が、静かにグラスに手を伸ばし、一口飲んでから言った。

「藤沢さん、頭を上げてください。私たちは、藤沢さんのその優しさに救われたし、そのスマートさに恋をしたんです。だから、自分をそんなに責めないでください」

美咲も、香織の言葉に同意するように頷いた。

「はい。私たちは、藤沢さんに答えを強要するためにここに来たわけじゃありません。藤沢さんが、私たちの気持ちを知った上で、どうしたいのかを聞きに来たんです」

藤沢はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、すでに彼なりの「最適解」が、明確な輪郭を持って宿っていた。

「ありがとうございます。……僕の、答えをお話しします」

藤沢は、二人の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「僕は、今回のインテリアプロジェクトが終了した翌月——つまり、来月の末を以て、このフロンティア・デザインをクローズし、フランスのパリにある建築事務所へ移籍することに決めました」

オフィスの空気が、一瞬にして凍りついた。

美咲も、香織も、藤沢の口から出た予想だにしない言葉に、言葉を失って彼を見つめた。

4

「パリ、ですか……?」

美咲の声が、静まり返ったフロアに小さく響いた。

「はい」

藤沢は、デスクの上の万年筆に視線を落とし、それから優しく微笑んだ。

「実は、半年前から先方の事務所から熱心なオファーを受けていたんです。ですが、国内でのいくつかのプロジェクト、特に奥村さんと進めているホテルの件をどうしても成功させたくて、返事を保留にしていました。……けれど、先週、奥村さんから本音をぶつけられた時、気づいたんです。今の僕には、お二人のどちらか一人を選ぶ資格も、その覚悟も足りていないのだと」

藤沢は、香織の方を見た。

「香織さん。あなたの真っ直ぐな好意は、僕の凍りついていた心を何度も溶かしてくれました。あなたといる時間は、本当に純粋に楽しかった」

次に、藤沢は美咲を見た。

「奥村さん。あなたとの仕事は、僕のデザイナーとしての人生で、最も幸福な時間でした。あなたの色彩感覚、あなたの言葉一つひとつが、僕のインスピレーションの源だった」

藤沢は、三つのグラスを愛おしそうに見つめた。

「僕は、お二人のことが、本当に大好きです。だからこそ、今の僕の半端な気持ちで、どちらか一人を選んで、もう一人を傷つけるような真似はしたくない。大人のシンプルさを重んじるつもりでいて、一番未熟だったのは僕自身です。そして何より、僕という存在のせいで、お二人の素晴らしい十四年間の歴史が消えてしまうのは、どうしても耐えられない。……だから、僕は日本を離れます。これが、僕が悩み抜いた末に導き出した、僕なりの『大人の決断』です」

それは、あまりにも藤沢らしく、あまりにもスマートで、そして、あまりにも残酷な「正論」だった。

彼は、二人の女性への愛おしさを認めながらも、誰のものにもならないという選択をすることで、美咲と香織の友情を守ろうとしたのだ。自分という共通の失恋を二人に与えることで、再び二人が同じ場所へ戻れるように。

香織の目から、大粒の涙がポロポロとガラスの天板にこぼれ落ちた。

「……藤沢さん、それ、まじでずるいよ。最後までカッコつけすぎじゃん……」

香織は、泣き笑いのような表情で、ハンカチで目を押さえた。

美咲も、胸の奥が熱い涙で満たされていくのを感じていた。けれど、そこには不思議と、恨みや悔しさはなかった。あるのは、これほどまでに自分たちを大切に思い、悩み、不器用なまでの優しさで去っていこうとする一人の男性に対する、深いリスペクトだった。

「藤沢さん」

美咲は、立ち上がり、藤沢に向かって手を差し出した。

「今回のホテルのコンペ、絶対に勝ちましょうね。世界一のインテリアにして、藤沢さんを気持ちよくパリへ送り出しますから」

藤沢は一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに眼鏡をかけ直し、いつもの完璧なプロフェッショナルな笑顔に戻って、美咲の手を強く握り返した。

「ええ、よろしくお願いします、奥村さん。僕たちの最高傑作を作りましょう」

「ちょっと、私も混ぜてよ!」

香織が涙を拭いながら立ち上がり、二人の手の上に自分の手を重ねた。

「レセプションのプレスアテンド、私が世界一派手に宣伝してあげるんだから。覚悟しといてよね、藤沢さん」

「ハハ、それは心強い。香織さん、期待していますよ」

三人の手が、テーブルの上で一つに重なった。

恋は破れた。三角形は、それぞれの角が離れていくように、形を失っていく。

けれど、そこには憎しみもドロドロとした執着もなく、お互いを大人の人間として尊重し合う、最も美しい終わり方への設計図が、確かに描き出されていた。

西天満のオフィスの窓の外には、いつの間にか美しい夕焼けが広がり、三人の影を、長く、優しく、東の方へと伸ばしていた。二十八歳、私たちが選んだ、これが私たちの「夜明け」の始まりだった。


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