36話 情報の非対称性の解消
神の隠し口座をハッキングし、一兆ローゼンの電子資産を我が社の「特別目的会社(SPC)」へ移転し終えてから三時間。ローゼン・タワーの演算室は、ディートリヒが放つ極限の集中力と、オーバーヒートした魔導回路の焦げ臭い匂いで充満していた。
「……ディートリヒ。まだ起きてるかしら? 目を開けたまま気絶していないでしょうね?」
私が冷徹に、しかし足音を響かせて近づくと、ディートリヒは虚空を見つめたまま、指先だけをピクピクと動かしていた。彼の眼鏡の片方のレンズは割れ、そこから覗く瞳は充血し、もはや「実数」ではなく「複素数」でも眺めているかのような深淵を湛えている。
「……セシリア様……。……情報の……非対称性……。……世界は……不公平に満ちています……。……強者が弱者を……情報で……支配し……。……あ……あぁ……」
「……プッ、あははは! 哲学的な境地に達しちゃって、おめでたいわね。……でも、その不公平を解消して、情報の利権を『私』が独占するのが、我が社の経営戦略なのよ。……さあ、次のフェーズ。……大陸中のギルドと王族の『癒着ログ』、すべてサルベージ(回収)できた?」
「……完了……。……一万二千件の……裏取引……。……騎士団への……裏金……。……聖女リリィの……ファンクラブ限定……未公開……あざとい自撮り……一万枚……」
「……リリィの自撮りはどうでもいいわ! 即座に削除、いえ、後で弱み(レバレッジ)としてアーカイブしなさい。……それより、ギルドの癒着よ。これを『ローゼン・リークス』として、全世界に同時公開なさい」
その時、演算室のスピーカーから、またしてもアルヴィスの地響きのような声がノイズ混じりで割り込んできた。
『ディートリヒーー!! 筋肉のパルス(鼓動)が、データの流速を加速させているぞーー!! 俺の乳酸が……限界を超えて……光ファイバーのように輝いている!! さあ、世界に真実(筋肉)を叩きつけてやれーー!!』
「寄るなイケメン! 貴方のその『パルス』のせいで、精密データのパリティチェック(エラー検出)が面倒くさくなるじゃないの! ……ディートリヒ、アルヴィスの筋肉ノイズを逆利用しなさい。……公開するデータに、アルヴィスの『暑苦しい残像』をノイズとして埋め込むのよ。……閲覧者の精神に負荷を与えて、情報修正(削除)の気力を奪うためよ!」
「……っ! 精神汚染……情報……! ……悪魔の……発想だ……。……セシリア様……。……承知いたしました……。……送信……実行……」
一分後。大陸全土の魔導掲示板、および各国の王宮にある通信水晶が一斉に輝き出した。
そこに映し出されたのは、あまりにも赤裸々な汚職の証拠。そして、背景で何故かポージングを決めながら「清廉潔白とは何か!」と叫ぶアルヴィスの巨大な半透明の残像。
「な、なんだこれは!? 我がギルドの裏帳簿が……! しかも、この背景の男が眩しすぎて、文字がまともに読めん! 目が……目が焼ける!!」
「……消そうとしても消えないぞ! データを削除しようとすると、この筋肉男の『愛の囁き(ボイス)』が爆音で再生されるんだ!!」
大陸中の特権階級がパニックに陥る。
情報の透明化。それは、既得権益者にとっては「死刑宣告」に等しい。
私は、モニターに映る阿鼻叫喚の図を眺めながら、優雅に扇子を広げた。
「……ふふ。これで、情報の主導権は完全に私のものね。……ディートリヒ。貴方のその、死にかけの貢献。……帳簿上では『無形固定資産』として、永久に減価償却(こき使い)してあげるわ」
「……っ。……セシリア様……。……一生……寝かせてもらえない……。……ですが……。……この……圧倒的な……支配感……。……最高……です……」
ディートリヒが、ついに力尽きてキーボードの上に突っ伏した。
しかし、彼の指は痙攣しながらも、まだ「自動売買プログラム」のコードを書き続けていた。
悪役令嬢セシリア・ヴァン・ローゼンバーグ。
彼女の覇道は、イケメンの命を「ビット(情報)」に変換し、ついに世界のパワーバランスを完全に書き換えた。
「……さあ、次の決算を始めましょう。……マックス。……ディートリヒの睡眠時間は、一分あたり一万ローゼンの『管理費』として徴収なさい。……タダで寝かせるほど、私はお人好しじゃないわよ」
夜明け前のローゼン・タワー。
一人の天才の犠牲の上に、世界の「新秩序」が確立されようとしていた。




