第9話:金曜日の夕暮れ、帰りの会のチャイム
「――以上で、今週の終わりの会を終わります。みなさん、さようなら」
日直の号令とともに、キーンコーンカーンコーンと、一週間の終わりを告げるチャイムが教室に響き渡った。
その音は、いつもなら「待ちに待った週末の始まり」を告げるファンファーレのはずだった。机のあちこちから、椅子を引く賑やかな音や、「明日どこ行く?」という弾んだ声が湧き上がる。
夕方の教室に差し込む西日は、驚くほど濃いオレンジ色で、教室の中をどこか切ないグラデーションに染めていた。
揺里は、ゆっくりとスクールバッグのファスナーを閉めた。
前の席では、マイとチカが背中を向けたまま、明日の連絡網について小声で話している。完全に無視されているわけじゃない。でも、声をかけるには、今の二人の距離が少しだけ眩しすぎた。
(みんな、ちゃんと一週間を泳ぎきったんだな……)
自分だけが、プールの底で一人、息を止めていたような一週間だった。
楽しいはずの毎日。不満なんてないはずの日常。それなのに、あの哲学の本に出会ってから、自分の輪郭が少しずつ変わっていくような、甘くて、少し痛い、不思議な感覚がずっと胸の奥に居座っている。
ふと視線を感じて顔を上げると、教室の入り口近くで、千歳がスクールバッグを肩にかけ、帰ろうと歩き出すところだった。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、彼の眠そうな瞳が揺里を捉える。
彼は何も言わず、ただ、窓から差し込む夕日を背に浴びて、そのまま教室を出ていった。
ただそれだけの、ほんの少しの視線の交差。
それなのに、私の胸の奥が、トクン、と小さく跳ねる。
彼もまた、この四角い教室の中で、誰にも言えない何かを抱えて生きている一風景なのだ。その静かな背中が、今の揺里には、少しだけ愛おしく、そして心強く思えた。
「ゆらりん、また月曜日ね」
教室を出る間際、マイが振り返って、いつものように優しく手を振ってくれた。隣のチカも、少しはにかんだように小さく頷く。
「うん……! また月曜日ね」
精いっぱいの笑顔で応えると、胸の奥のつかえが、夕日の光に溶けていくように少しだけ軽くなった。
壊れてしまったわけじゃない。みんな、それぞれの場所で、一生懸命に生きているだけ。
サルトルの本は、図書室の机の上に、あと数ページを残したまま眠っている。
来週には、きっとあの本の最後のページをめくることになるだろう。
終わりのチャイムは、本当の始まりの合図。
誰に言い訳をするわけでもなく、誰の許可を求めるわけでもない。
私は、私の足で、この切なくて愛おしい日常を歩いていくんだ。
長い影を引きずりながら、揺里は夕暮れの廊下へと一歩を踏み出した。




