第8話:机の上の境界線、静かな背中
金曜日の昼休み。
教室の喧騒から逃れるように、揺里は一人、手洗い場の鏡の前で顔を洗っていた。冷たい水が肌を刺し、少しだけ頭がすっきりする。
教室に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうからチカが一人で歩いてくるのが見えた。
いつもならマイと三人でいることが多いけれど、チカは今日、図書委員の仕事があるはずだった。
すれ違いざま、揺里は少し緊張しながら「チカ」と声をかけた。
「あ、ゆらりん」
チカは足を止め、小脇に抱えた出席簿をぎゅっと抱え直した。その目は、昨日マイが見せてくれたような分かりやすい優しさではなく、どこか戸惑うような、少し冷めたような複雑な色をしていた。
「……ねえ、ゆらりん。マイから聞いたよ。また落ち着いたら、一緒にお昼食べよって」
「うん。……ごめんね、最近なんか、上手く話せなくて」
「ううん、それはいいんだけどさ」
チカは廊下の窓の外、どんよりとした空へ視線を外した。
「私さ、ゆらりんが何に悩んでるのか、全然分かんない。隠し事されてるみたいで、ちょっと寂しいっていうか……。でも、マイみたいに『待ってるよ』って、器用に言えなくて。ごめん」
チカはそれだけ言うと、「じゃあ、図書室の仕事あるから」と、少し早足で歩き去っていった。
悪意があるわけじゃない。ただ、中学生の狭い世界において、「理由の分からない変化」は、それだけで小さな裏切りのように感じられてしまうのだ。チカの不器用な本音は、マイの優しさとはまた違う重さで、揺里の胸にズシンと響いた。
(私は、みんなを傷つけているのかな……)
放課後。
重い足取りで図書室の扉を開けると、そこには、いつもの静寂があった。
けれど今日は、いつもと違う風景が一つだけあった。
窓際の席に、千歳が座っていたのだ。
彼はいつも、揺里が入ってくると一瞬だけ目を向けるか、あるいは完全に無視して自分の本を読んでいる。けれど今日は、机に突っ伏したまま、じっと動かなかった。
揺里が自分の『哲学・思想』の棚へ向かおうとすると、彼の机の端に、一枚のプリントがくしゃくしゃになったまま置かれているのが見えた。
それは、先日の小テストの返却用紙だった。真っ赤なペンで、お世辞にも良いとは言えない点数が書かれている。
千歳は、ただ偏屈でクールな男の子なんかじゃない。彼もまた、この学校という狭い箱の中で、勉強や、人間関係や、将来の何かに、言葉にできない行き詰まりを感じている、ただの不器用なクラスメイトなのだ。
千歳は、揺里の足音に気づいたのか、突っ伏したまま少しだけ首を動かした。けれど、何も言わずに、また目を閉じた。
「がんばれ」とも「大丈夫」とも言わない。その、お互いに踏み込まない距離感が、今の揺里には、教室のどの言葉よりも救いのように感じられた。
揺里はいつもの席に座り、サルトルの文庫本を開いた。
教室でのチカの言葉が、耳の奥でリフレインする。
自分の自由を貫くということは、周りの大切な人を困惑させ、寂しい思いをさせることでもある。
本を開く揺里の指先に、じわりと重い責任がのしかかる。
それでも、私はこの本を閉じることはできない。
学校という狭い檻のなかで、それぞれに悩み、それぞれの距離で生きているマイ、チカ、そして千歳。彼らの気配を感じながら、揺里はサルトルの残り少ないページを、一枚、また一枚と、静かにめくっていった。




