第7話:教科書の間、五分の猶予
3時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室が一斉にざわめき立つ。次は、特別教室への移動が必要な理科の授業だった。
「あ、マイ、ノート忘れた。ちょっと待って」「チカ、早くしなよー。遅れると先生うるさいし」
前の席で、マイとチカがいつものようにバタバタと筆箱や教科書を鞄に詰めている。いつもなら、揺里もそこに「ねえ、一緒にいこ」とごく自然に混ざっていた。けれど、ここ数日の目に見えない薄い壁のせいで、どうしてもその一言が喉の奥につっかえてしまう。
揺里が一人、静かに教科書を胸に抱えて席を立ち、廊下へ出ようとした時だった。
「……あ、ゆらりん」
不意に後ろから声をかけられ、揺里の肩がピクリと跳ねた。振り返ると、マイが少しだけ気まずそうな、けれどいつもと変わらない人懐っこい笑顔で立っていた。チカは少し先を歩いていて、こちらには気づいていない。
「これ、机の下に落ちてたよ」
マイの手には、揺里のシャープペンの消しゴムキャップが握られていた。「あ……ありがと、マイ」「ううん。……ねえ、ゆらりん」
マイは並んで歩きながら、廊下の喧騒に紛れるくらいの小さな声で、ぽつりと言った。「最近、なんか忙しい? 無理にとは言わないけど……また落ち着いたら、いつものお昼休みの場所、来てよ。チカもさ、口ではあー言ってるけど、ゆらりんがいないとちょっと寂しいって言ってたし」
意地悪でも、拒絶でもなかった。マイはマイなりに、急に遠くなってしまった揺里のことを心配し、測りかねているだけなのだ。その、中学生らしい純粋な優しさが、今の揺里にはかえって痛かった。
「……うん。ごめんね、ありがとう」
それしか言えなかった。理科室の重いドアの手前で、チカが「マイ、早くー!」と手を振る。マイは「はーい!」と応えて、揺里に小さく笑いかけると、そちらへ駆けていった。
完全に壊れたわけじゃない、リアルな距離感。それが、揺里の胸をチクチクと締め付ける。みんないい子だ。教室は、何も悪くない。悪いのは、自分に嘘をついてそこに馴染むこともできず、かといって一人で立つ覚悟も決めきれない、自分自身の弱さだ。
放課後。掃除当番の手をすり抜け、揺里は逃げるように図書室の扉を開けた。いつもの『哲学・思想』の棚。そこにある色褪せたサルトルの文庫本が、今の揺里にとって唯一、言い訳をしなくていい場所だった。
窓際の席に腰掛け、ページをめくる。
『人間は、自らがあるところのものでなく、自らがあらぬところのものである』
難しい言葉が、活字となって目に飛び込んでくる。今の自分は、「教室にいるいつものゆらりん(あるところのもの)」ではなく、「そこから抜け出したいと願う一人の少女」なのだろうか。
マイの優しい声を思い出す。みんなの期待に応えて、また「いつもの私」に戻れば、この胸の痛みは消えるのかもしれない。けれど、一度開いてしまったこの本のページを、もうなかったことにはできない。
(私は、どうしたいんだろう……)
サルトルの本は、もうすぐ最後のページを迎えようとしている。文字を追う揺里の視線は、友達への申し訳なさと、自分を貫きたいという小さな意地の間で、静かに、激しく揺れ動いていた。




