第61話:茜さす窓辺の音、ひそやかなトーン
静まり返った図書室の中で、揺里はただひたすらに、ディープブルーの文庫本の文字を追いかけていた。
窓の外から差し込む光が、ゆっくりと茜色から薄紫色のグラデーションへと移り変わっていく。本の中に広がる静かな世界に深く潜り込んでいた、その時だった。
パタン
窓際の席から、少し厚みのある本が閉じられる明瞭な音が響いた。
揺里がハッとして顔を上げると、千歳くんが机の上に両肘をついたまま、じっとこちらを見つめていた。いつもなら本を閉じたらすぐに帰る準備を始めるはずの彼が、めずらしくそのまま座っている。
「……一六立」
夕暮れの静寂に溶けそうな、いつもより少しだけ低い、ひそやかなトーンだった。
「……ん? どうしたの、千歳くん」
「いや。……さっきの朝の廊下のことだけど」
千歳くんは少し長めの前髪を指先でいじりながら、視線を泳がせた。いつもの気だるげな様子とはどこか違う、ほんの少しの躊躇いが彼の肩のラインに滲んでいる。
「お前が言ったこと、……なんか、ちょっと分かった気がする」
「え……?」
揺里はシャープペンシルを握ったまま、目を丸くした。
「伊織のやつ、さっきの授業中、お前にぶつかったこと本気で気にしてたみたいでさ。いつもみたいに騒がないで、ずっと真面目にデッサンしてたから。……あいつなりに、ちゃんと悪いと思ってたんだなって。だから、僕が何も知らないで『最低』って言ったのは、やっぱり間違ってた」
千歳くんはそこまで一気に言うと、ふいっと顔を背けて窓の外の夕空を見つめた。
言葉は少しぶっきらぼうだけど、彼が自分の非を認めて、わざわざそれを揺里に伝えようとしてくれている。その不器用な誠実さに触れた瞬間、揺里の胸の奥が、トクン、と優しくて甘い音を立てて跳ねた。
「千歳くん……」
揺里は思わず口元を緩め、小さな笑みをこぼした。
「ううん、私もさっきはちょっとムッとしちゃってごめんね。でも、千歳くんがそうやって言ってくれて、私、すっごく嬉しい」
千歳くんは何も言わずに、ただ耳の端をほんのり赤くしたまま、もう一度小さく「ふーん」とだけ呟いた。そして、カバンを肩にかけると、「じゃあな」とだけ残して、今度こそ静かに図書室を出ていった。
ギィ、と引き戸が閉まる音。
一人きりに戻った図書室で、揺里は自分の胸の上にそっと手を当てた。
朝の廊下でのハラハラも、千歳くんとの小さなすれ違いも。
みんなそれぞれの色彩を持って、この学校で一生懸命に生きている。
手元にある『孤独の幸福について』を開き直しながら、揺里はさっきよりも少しだけ温かくなった心で、静かに次のページをめくり始めた。




