第60話:木曜日の夕なぎ、もういちど開く青い扉
「――じゃあね、ゆらりん、また明日!」
「宿題、忘れないでね」
ホームルームが終わった後の賑やかな喧騒のなか、マイとチカが笑顔で教室を出ていく。揺里もいつものように「うん、また明日ね!」と手を振り返した。
お母さんから託された新しいハンカチを、伊織くんに無事に手渡すというミッション。
朝の廊下で起きた、千歳くんとの少しだけ不器用で温かいやり取り。
色んなことが一気に起きた木曜日だったけれど、スクールバッグのポケットが空っぽになった今の揺里の心は、驚くほどすっきりと澄み渡っていた。
(……お母さんの言う通りにして、本当に良かったな)
揺里はスクールバッグを肩にかけ直すと、少しだけ背筋を伸ばして、いつもの校舎の最上階へと向かった。階段を一段ずつ上っていくたびに、平日の騒がしい喧騒が足元からサラサラと遠ざかっていく。
ギィ、と静かに図書室の木の扉を押し開ける。
室内に一歩足を踏み入れた瞬間、あの懐かしい古い紙の匂いと、優しい夕なぎのような静寂が揺里の体を迎え入れた。
窓際の特等席を見やると、そこには、いつもと変わらない風景が一つだけ佇んでいた。
オレンジ色の夕景に照らされながら、静かに分厚い本のページをめくっている千歳くんの横顔。朝の廊下であんな風に少し照れくさそうに「言いすぎた」と呟いた彼が、今は何事もなかったかのように、ただそこに静かに存在している。
朝の噂話も、廊下でのハラハラも、この図書室の静寂のなかでは、すべてが優しい一枚の景色に溶けていってしまうようだった。
揺里はいつもの席にそっと腰掛け、スクールバッグから昨日選んだディープブルーの文庫本、――『孤独の幸福について』を取り出した。
そっと表紙をめくり、ラベンダーのミストの香りが残るパステルカラーのノートを隣に広げる。
『一人の時間は、誰とも交わらないからこそ美しい』
昨日ノートにぐちゃぐちゃの本音を書き殴ったページの続きを見つめながら、揺里はシャープペンシルの先をそっと置いた。
本に書かれている完璧な言葉と、私が学校の教室でみんなと笑い合ったり、誰かの優しさに胸を痛めたりするリアルな毎日。どちらが一番の正解なのかなんて、今の揺里にはやっぱりまだ分からないけれど。
サラリ、と窓際から千歳くんがページをめくる乾いた音が、静かな室内に小さな波紋を広げた。
まだ完全に暗くなる前の、おだやかな光のなかで。
揺里は手の中のディープブルーの本を愛おしそうに見つめながら、私だけの特別な放課後の時間を、ゆっくりと、深く、紡ぎ始めていた。




