第62話:夕なぎの家路、ほどけていくグラデーション
本をスクールバッグにしまい、図書室の扉を静かに閉めると、校舎の中はすっかり静まり返っていた。
階段を下りる揺里の足音は、いつもよりずっと軽やかだった。昇降口でローファーに履き替えて一歩外へ出ると、まだ完全に暗くなる前の、おだやかな薄紫色の夕空が街を優しく包み込んでいる。
(……千歳くん、わざわざあんな風に言ってくれるなんてな)
通学路を歩きながら、揺里の口元に自然と小さな笑みがこぼれる。
いつも窓際で心を閉ざしているように見えた彼が、自分の間違いを認めて、真っ直ぐに言葉を届けてくれた。それは、お昼休みにマイやチカとお腹を抱えて笑い合ったときの温かさとも、伊織くんが不器用につむいでくれた優しい嘘のぬくもりとも、少しだけ違う。
図書室という二人の特別な空間だからこそ生まれた、ひそやかで、とても心地いい色彩の交差だった。
(私のまわりの世界は、私が思っていたよりもずっと、ずっと優しいのかもしれない)
少し前まで、学校の教室は息苦しくて、自分だけがどこにも馴染めないような気がしていた。みんなに話を合わせるために自分を押し殺して、そんな毎日に言い訳ばかりを探していたのに。
でも、サルトルの本を開いて、自分の足で一歩を踏み出したあの日から。
街の図書館で広い世界の色を知って、学校の男の子たちの不器用な一面に触れて。
そうやって色んな経験をしながら、揺里のパレットには、誰にも真似できない新しい色が少しずつ、けれど確かに増えていっている。
バッグのポケットの、あの空っぽになった白い四角のスペースを指先でそっとなぞる。
今夜はお母さんに「ハンカチ、もう大丈夫だよ」って、笑顔で報告できそうだ。
遠くを走る電車の音や、近所の家々から漂ってくる夕ご飯の匂いが、夕暮れの風に乗って優しく通り過ぎていく。
まだ耳の奥に残る千歳くんの少し低い声を大切に抱きしめながら、揺里は今日という愛おしい一日の余韻に満たされて、見慣れた我が家の門へと向かって、まっすぐに歩みを進めていった。




