第58話:茜色のバトン、白い四角がひらく未来
千歳くんの少し丸まった背中が、教室の引き戸の向こうへと静かに消えていく。
その足音が完全に途絶えた瞬間、廊下のざわめきが急に耳の奥へと戻ってきたような気がした。
「……で、一六立? 何か用でもあった?」
炭酸ジュースの缶をパチリと開けながら、伊織くんが不思議そうに覗き込んでくる。
その真っ直ぐな瞳に見つめられて、揺里は「あ、ううん!」と慌てて首を振ると、制服のポケットに深く差し入れていた右手にそっと力を込めた。
手のひらに触れる、ピシッとしたあの白い四角。
(……今、渡さなきゃ)
揺里は周囲に誰もいないことを確かめるように左右に視線を泳がせてから、意を決して、袋に入ったままの真っ白な新しいハンカチを両手で取り出した。
「これ、受け取ってほしいの」
「え? ……何これ、新品じゃん」
伊織くんは驚いたように目を丸くし、開けたばかりのジュースの缶を持ったまま固まった。
「昨日のハンカチね、お母さんに洗ってもらおうとしたら、血がついちゃったものは綺麗にしても残っちゃうからって、処分することになっちゃって……。だから、これ、お母さんから代わりの新しいやつ。本当にごめんなさい、お気に入りのチェックだったかもしれないのに……」
申し訳なさで消え入りそうな声で一気に説明すると、伊織くんは一瞬きょとんとした。それから、いつものお調子者の顔に戻って、頭の後ろをポリポリとかいた。
「あー、なんだそんなこと! 全然お気に入りとかじゃねーし、むしろ新品になってラッキーだわ。ありがとな、一六立。お母さんにもよろしく言っといて」
伊織くんは差し出された白い四角をひょいと受け取ると、いつもの爽やかな笑顔を揺里に向けた。その大きくて少し日に焼けた手のひらにハンカチが収まったのを見て、揺里の胸の奥のハラハラは、すうっと綺麗に解けていった。
「うん! じゃあね!」
揺里は小さく微笑み返すと、これ以上誰かに見られないうちに、と、すぐに踵を返して自分の教室へと小走りで戻り始めた。
背中で「おう、またな!」という伊織くんの軽い声が聞こえる。
ミッションは無事に終わった。お母さんの言う通り、ちゃんと大人の礼儀で返せて良かった。
廊下を走る揺里のローファーの足音は、朝よりもずっと軽やかで、パステルカラーの安心感が胸いっぱいに広がっていた。




