第57話:廊下のささやき、重なるふたつの足音
休み時間が始まって、ちょうど五分が過ぎた頃だった。
チカの言っていた通り、窓側の席で騒いでいた伊織くんが、小銭をポケットでチャリンと鳴らしながら、ふらりと一人で教室を出ていった。
(……今だ)
揺里の心臓が、トクンと大きく跳ねる。
マイが横から「ほら、ゆらりん、今だよ!」と、声に出さずに口パクで激しく背中を押してくる。チカも、静かに顎を引いていってらっしゃいと視線で合図をくれた。
二人の頼もしい目線に背中を押され、揺里は制服のポケットの中の、あのピシッとした白い四角を指先でぎゅっと握りしめ、席を立った。伊織くんの後ろ姿を追いかけるようにして、ガララと引き戸を開けて廊下へ出る。
大勢の生徒たちが行き交う賑やかな廊下を、少し歩幅を速めて歩いていた、その時だった。
「――一六立」
不意に横から低い声で名前を呼ばれ、揺里は「あ……」と声を漏らして足を止めた。
振り返ると、いつの間にか教室を出ていたらしい千歳くんが、壁に少し背を預けた状態で立っていた。その眠そうな瞳が、まっすぐに揺里の顔を捉える。
「千歳くん……どうしたの?」
「別に。……昨日、図書室のあと、ちゃんと帰れたのかなって思っただけ」
千歳くんは少しだけ視線を斜め下に外しながら、ぶっきらぼうに言った。昨日の放課後、伊織くんの愚痴を言う彼に、揺里が子どもっぽく言い返してしまったあの気まずい瞬間が頭をよぎる。
「うん、暗くなる前にちゃんと帰れたよ。昨日は……その、言い返しちゃってごめんね」
「いや、いいけど。僕の方こそ、あいつの事情も知らないのに言いすぎた」
千歳くんは前髪を少し直しながら、小さく呟いた。彼がそんな風に素直に言葉を返してくれるなんて思わなくて、揺里の胸の奥が、なんだか少しくずつったいような温かさに包まれていく。
二人がそんな風に、廊下の隅でほんの少しだけ言葉を交わしていた、その時。
「お、一六立じゃん。こんなところで何してんの?」
チャイン、とポケットの小銭を鳴らしながら、自販機の方から炭酸ジュースの缶を持った伊織くんがトコトコと戻ってきた。
彼は千歳くんがいることには特に触れず、いつもの少し真面目な目を覗かせて、揺里の腕の絆創膏を見つめた。
「腕の傷、ちゃんと洗い流した? 大丈夫だったか?」
「あ……うん! チカちゃんに貼ってもらったから、もう全然平気だよ」
突然の伊織くんの登場に、揺里は驚いてポケットの中のハンカチを握りしめた。
千歳くんは、伊織くんのその言葉を聞くと、いつもの気だるげな表情にすっと戻り、椅子の背もたれから体を離すように壁から身を起こした。
「……じゃあ、僕は教室に戻るから」
千歳くんはそれだけ静かに言い残すと、伊織くんとすれ違うようにして、一人で教室のドアの方へと歩み去っていった。その静かな後ろ姿を見送りながら、揺里の心臓は、ふたつの等身大の気配に挟まれて、トク、トク、とまた少し忙しく脈打ち始めていた。




