第55話:木曜日の白い四角、ドアの手前の長い息
カチリ、とスクールバッグのポケットのボタンを留める。
その薄い布地の向こうには、昨日の夜にお母さんから手渡された、袋に入ったままの真っ白な新しいハンカチが静かに収まっている。
血のついたものは処分して、新しいものを代わりに渡す――。お母さんの大人としての優しい気遣いはすごく嬉しかったけれど、バッグの重みを感じるたびに、揺里の胸の奥は朝からずっと落ち着かないリズムを刻んでいた。
(……ただ返すだけじゃないもんね。新しいのをあげるって、余計に変に思われないかな)
通学路を歩くローファーの足音は、いつもより少しだけ慎重になる。
すれ違う他クラスの生徒たちの楽しげな声が右から左へと通り過ぎていくなか、揺里の頭の中は、今朝の教室のシミュレーションでいっぱいだった。
昨日、美術室でのアクシデントを大声で笑い飛ばして秘密を隠してくれた伊織くん。
不器用だけど彼なりの盾になってくれた。
そして、放課後の図書室でその伊織くんのことを悪く言われ、思わず子どもっぽく言い返してしまった千歳くん。
(……千歳くん、やっぱり怒ってるよね。顔、合わせづらいな……)
校舎に入り、上履きに履き替えてコンクリートの階段を上る。
いつもと変わらない、少し薄暗い木曜日の廊下。けれど、自分の教室の四角いドアが近づくにつれて、揺里の歩幅は自然と小さくなっていった。
ドアの手前で、一度だけ足を止める。
胸いっぱいに冷たい廊下の空気を吸い込んで、ゆっくりと長い息を吐き出した。
ガララ、と静かに引き戸を引く。
「あ、ゆらりんおはよー! 腕の傷、大丈夫だった?」
教室に入るなり、いつもの席からマイが眩しい笑顔で手を振ってくれた。その隣で、チカも静かに顔を上げて「おはよう、ゆらりん」と視線で腕の絆創膏を気遣ってくれる。
二人の変わらない温度に、揺里は「マイ、チカ、おはよ。うん、もう全然平気だよ」と少しだけホッとした声を返した。
席につきながら、揺里はバッグを机のフックにかけるフリをして、教室のあちこちへと視線を泳がせた。
窓側の席では、伊織くんがすでにいつもの男子グループの真ん中で、カバンを机に放り出しながら大声で笑っている。いつも通りの、騒がしいクラスのムードメーカー。
そして、二列後ろの席。
千歳くんは、机に片肘をついたまま、昨日図書室で読んでいたものとは違う、薄い文庫本を気だるそうに見つめていた。揺里が教室に入ってきたことにも気づいているはずなのに、彼は一度もこちらを見ようとはせず、静かにページの端をめくった。
(……やっぱり、気まずいよね)
胸の奥がキュンと、少しだけ切なくすぼむ。
カバンの中に眠る、真っ白な新しい四角。
二人の男の子の気配を背中と斜め後ろに感じながら、揺里はドキドキと波打つ胸を隠すように、木曜日の最初の教科書を静かに机の上へと取り出した。




