第53話:台所の白い湯気、手渡された新しい四角
ノートを閉じ、ブルーのチェック柄のハンカチを両手で包むように握りしめたまま、揺里はゆっくりと階段を下りた。
トントン、と小気味よい包丁の音が響くキッチン。お母さんは夕食の仕上げにかかっているらしく、白い湯気の向こうで忙しそうに動いていた。
(……よし、ちゃんと言おう)
隠し事をして一人で泣き崩れたあの日の苦しさを、揺里はもう繰り返したくなかった。お母さんの後ろ姿に歩み寄り、少し震える声で呼びかける。
「お母さん、あのね……」
「あら、どうしたの? 揺里」
お母さんが手を止めて振り返る。揺里は、シワの寄ったハンカチをまっすぐに差し出した。
「これ、今日また汚れちゃって。美術の時間にね、昨日ハンカチを貸してくれた伊織くんがふざけて後ろ歩きしてて、私とぶつかっちゃったの。私が転んで腕に擦り傷ができたら、伊織くんが本気で焦って、今朝返したばかりのこのハンカチを『これで拭きなよ』ってまた貸してくれて……。だから、本当にわざとじゃないの」
一気にまくしたてた揺里は、お母さんの顔を見るのが怖くて、ぎゅっと目を閉じて肩をすくめた。
お母さんはハンカチを受け取ると、少し困ったような、複雑な顔をしてそれを見つめた。
しばらくの沈黙のあと、お母さんはただ静かに、こう呟いた。
「そう」
怒られるわけでも、からかわれるわけでもない、その短い言葉に、揺里は恐る恐る目を開けた。お母さんは「ちょっと待ってなさい」とだけ言い残して、キッチンの奥の棚へと席を外していった。
(やっぱり、二日連続は呆れられちゃったのかな……)
ハラハラしながら待っていると、お母さんがすぐにリビングへと戻ってきた。その手には、洗濯カゴではなく、別の小さなものが握られていた。
「揺里、これ、使いなさい」
手渡されたのは、まだ一度も使われていない、袋に入ったばかりの真っ白な新しいハンカチだった。
「そのハンカチ、血がついちゃったものでしょう。男の子から借りたものだし、いくら綺麗に洗っても、血痕が残ったまま返すのはお互いにあまり良くないと思うの。それはお母さんが預かっておくから、明日、その新しいハンカチを代わりに伊織くんに渡しなさい」
お母さんの言葉に、揺里はハッとして自分の腕の絆創膏を見つめた。
ただ綺麗に洗って返せばいいと思っていたけれど、大人の、お母さんの言うことはもっとずっと先の、相手への礼儀を考えていたのだ。
「……うん、分かった。ありがとう、お母さん」
受け取った新しいハンカチは、袋越しでも分かるくらいピシッと綺麗に折りたたまれていて、どこか清々しい白さを放っていた。
お母さんの優しさに救われながらも、新しい秘密のハンカチをどうやって伊織くんに渡そうか。そして、あのディープブルーの持ち主である千歳くんとの気まずさはどうなるのか。
学校という狭い箱の中で起きる、名前のない複雑なトラブル。
揺里は新しい白い四角を胸に抱きしめながら、明日の朝の教室を思い浮かべ、トクンと小さく高鳴る胸を押さえていた。




