第52話:机の上の水たまり、名前のない色彩
「ただいま」
玄関を開けると、今日も変わらないお味噌汁の温かい匂いが揺里を迎えてくれた。お母さんの「おかえり」という優しい声を背中に聞きながら、揺里は逃げるように階段を上り、自分の部屋のドアを閉めた。
パステルカラーのカーテンが引かれた、世界で一番安全な私の部屋。
揺里はスクールバッグを床に置くと、吸い寄せられるように机の前に座った。
カバンのポケットから取り出したのは、美術の時間に少し湿ってしまった、あのブルーのチェック柄のハンカチ。
広げて机の上に置いてみると、昨日自分で一生懸命にアイロンをかけたはずの綺麗な四角形はすっかり崩れていて、ところどころに小さなシワが寄っている。鼻を近づけてみると、私の大好きなラベンダーの香りの奥から、ほんの少しだけ、あの騒がしい美術室の、絵の具と水の匂いがするような気がした。
(お母さんに、なんて言って渡そう……)
二日連続で同じ男子のハンカチ。いくらお母さんが優しくても、流石に二日続けて「洗って」なんて差し出したら、何か言われるに決まっている。
その言い訳を考えるだけで胸がジリジリと焦げるようで、揺里はたまらなくなってパステルカラーのノートを開いた。
シャープペンシルの芯をカチカチと押し出し、真っ白なページに、今のぐちゃぐちゃな頭の中をそのまま丸っこい文字で叩きつけるように書き殴っていく。
『今日の毎日は、なんだか情報が多すぎて頭がパンクしそう。
伊織くんが美術室でふざけてぶつかってきて、腕に擦り傷ができた。すっごく痛かったし、お調子者で本当にうるさいなって思った。
でも、伊織くんは真っ青な顔をして「ごめん」って謝って、このハンカチを私にくれた。
あのヨダレのひどい嘘だって、私の涙を隠すためのものだったのに。
それなのに、千歳くんは「あいつは周りの迷惑を考えてないから嫌い」って言った。
千歳くんの言うことも分かる。静かな図書室が好きな千歳くんにとって、伊織くんは宇宙人みたいに相容れない人なんだと思う。
でも、何も知らないのに「最低」なんて言われるのは、どうしても許せなかった。
だから私、千歳くんにすっごい怒った顔で言い返しちゃった。
千歳くん、びっくりしてた。嫌われちゃったかな。明日、図書室に行きづらいな』
書けば書くほど、ノートのページはまとまりのない感情の嵐で埋まっていく。
哲学の本に書いてあるような、スマートで洗練された答えなんてどこにもない。ただただ子供っぽくて、矛盾だらけで、不器用な自分がそこに転がっているだけだ。
でも、文字を書き殴っていくうちに、揺里の荒くなっていた呼吸が、少しずつ静かなリズムを取り戻していくのが分かった。
一人でいることは、静かで、誰の目も気にしなくていい『孤独の幸福』がある。
でも、その一人の時間に持ち込む私の心は、もう教室の男の子たちや、大好きな友達の色彩で、こんなにもぐちゃぐちゃに、賑やかに染まっているんだ。
「……よし」
揺里はシャープペンシルを置くと、机の上のハンカチを両手でそっと包むように持ち上げた。
お母さんに何か言われるかもしれない。それはすごく恥ずかしくて、ハラハラする。
でも、この賑やかで愛おしい日常のトラブルから、もう私は逃げたりしない。
揺里は深く息を吸い込むと、ハンカチを胸に抱きしめたまま、お母さんの待つ一階のリビングへと向かって、部屋のドアを静かに開けた。




