第50話:夕暮れの絆創膏、ちいさな反論
『孤独の幸福について』のページをいくつか読み進めるうちに、図書室の窓の外はゆっくりと柔らかな茜色から薄紫色の夕暮れへと移り変わっていった。
机の上を照らす蛍光灯の白い光が、手元のディープブルーの表紙をくっきりと浮き上がらせている。
「……ん」
揺里は小さく伸びをして、本に栞の紐を挟んだ。
今日の読書はここまで。お母さんに二日連続でハンカチの洗濯を頼むという、ちょっと気が重い「宿題」が待っているおうちへ、暗くなる前に帰らなきゃいけない。
本をスクールバッグにしまい、椅子を引いて立ち上がった、その時だった。
「――おい」
窓際の席から、低くて少し冷ややかな声が部屋の静寂を破った。
揺里がハッとして振り向くと、分厚い本を閉じた千歳くんが、めずらしく椅子の背もたれに体を預けてこちらをじっと見つめていた。その眠そうな瞳が、揺里の右の肘の下――美術室でチカちゃんに貼ってもらった、あの大きめの絆創膏へと真っ直ぐに向けられている。
「それ、大丈夫なのかよ」
「あ、これ? うん、美術の時間にね、ちょっと……」
揺里は長袖の制服の袖を少し引っ張って隠そうとしたけれど、千歳くんはふんと鼻を鳴らすと、少しだけ呆れたように前髪をかき上げた。
「あいつ、いつも教室でもうるさいし、そうやって周りの迷惑とか全然考えてないから嫌いなんだよね。さっきのヨダレの話だって、本当だとしても、あんな風にみんなの前で言うなんて最低じゃん。……まあ、どうせ嘘なんだろうけどさ」
ぶっきらぼうに吐き捨てられた、伊織くんへの愚痴。
その言葉を聞いた瞬間、揺里の胸の奥で、小さな、けれど譲れない気持ちがむくむくと湧き上がってきた。
ヨダレの嘘は恥ずかしかったし、ぶつかってケガをさせられたのは本当だけど。
でも、彼は私の涙の秘密を誰にも言わないって約束してくれたし、みんなに怪しまれないための嘘を、わざとその場で作ってくれたのだ。本気で「ごめん」って言って、ハンカチだって差し出してくれた。
「……そんなことないよ」
揺里はスクールバッグの紐をぎゅっと握りしめ、千歳くんをまっすぐに見つめ返した。ちょっとだけ口を尖らせて、子どもっぽく言い返す。
「伊織くん、確かにいっつもうるさいし、さっきのヨダレの話はすっごい意地悪だけど……でも、本当はぜんぜん悪い人じゃないもん。ちゃんとすっごい謝ってくれたんだから、そんな風に言ったら伊織くんがかわいそうだよ」
千歳くんは一瞬、きょとんとしたように目を丸くした。
いつもおとなしくて、本の後ろに隠れてばかりいる揺里が、まさかそんな風に自分の言葉で言い返してくるなんて、想像もしていなかったのだろう。
二人の間に、少しだけ気まずくて、けれどどこかさっきまでとは違う不思議な温度の沈黙が流れる。
「……ふーん」
千歳くんはすぐにいつもの気だるげな表情に戻ると、ふいっと視線を窓の外の夕空へと逸らした。
「別に、どうでもいいけど」と小さく呟いた彼の横顔は、蛍光灯の光のなかでも、ほんの少しだけ、バツが悪そうに赤くなっているように見えた。
「じゃあね、千歳くん。また明日」
揺里は小さく手を振って、図書室の扉へと向かった。
千歳くんの言葉に少しだけムッとしながらも、自分のなかの「伊織くんへの感謝」をちゃんと言葉にできたことが、なんだか少しだけ誇らしかった。
始まったばかりの、色んなことが起きる私の毎日。
まだ完全に暗くなる前の、おだやかな夕暮れの空気のなかで、揺里は自分のパレットに新しい色がまたひとつ増えたような不思議な感覚を覚えながら、図書室を後にした。




