第49話:夕なぎの特等席、開かれる青いページ
ギィ、と静かに図書室の重い木の扉を押し開ける。
室内に一歩足を踏み入れた瞬間、校舎の階段を上ってきたときの喧騒が嘘のように、懐かしい古い紙の匂いと静寂が揺里を優しく包み込んだ。
窓際の特等席を見やると、そこには、いつもと全く変わらない風景が一つだけ佇んでいた。
オレンジ色の夕日に照らされながら、静かに分厚い本のページをめくっている千歳くんの横顔。彼の少し長い前髪が光に透けて、きらきらと金色に輝いている。
クラスで噂話をされて、朝休みはあんなにハラハラしたのに。
こうして同じ部屋に座っている彼は、やっぱりいつも通りぶっきらぼうで、私を特別視するわけでもなく、ただそこに静かに存在している。その変わらない温度が、今の揺里にはたまらなく心地よかった。
揺里は自分の席にそっと腰掛け、スクールバッグから昨日選んだディープブルーの文庫本を取り出した。
お母さんにハンカチを二日連続で頼むときの言い訳をどうしようか、そんな等身大の悩みはひとまずバッグの底へ仕舞い込んで、本の手触りに意識を集中させる。
『孤独の幸福について』
そっと表紙をめくり、昨日見つめていた最初のページの続きへと視線を落とした。
『他者といるときの自分は、常に誰かのための役割を演じている。
しかし、一人きりになったとき、人間は初めてその仮面を脱ぎ捨て、本当の自分の色彩を取り戻すことができるのだ』
静かな活字が、夕暮れの光の中で整然と並んでいる。
(本当の、自分の色彩……)
美術の時間に、画用紙の上で青い絵の具がじわりと滲んでいった光景が頭をよぎる。
マイやチカと笑い合っているときの私も、伊織くんに不意にぶつかられて複雑な気分になったときの私も、どれも嘘じゃない。けれど、こうして静かな図書室で一人の時間に戻ってきたとき、私の心はどこか深く、凪いだ海のように落ち着いていく。
本が言う「孤独の幸福」の入り口に、私は今、ほんの少しだけ立っているのかもしれない。
サラリ、と窓際の席から千歳くんがページをめくる乾いた音が、静寂に小さな波紋を広げた。
言葉を交わすわけでも、目が合うわけでもないけれど。
揺里は、手の中のディープブルーの本を愛おしそうに見つめながら、私だけの特別な放課後の時間を、ゆっくりと、深く、紡ぎ始めていた。




