第5話:境界線の雨、静かな隣人
涙を袖で拭いながら、揺里はいつもの『哲学・思想』の棚へと歩みを進めた。
トク、トク、とまだ速い心臓の音が耳の奥で鳴っている。
いつもの色褪せた文庫本に手を伸ばそうとした、その時。
「……それ、面白い?」
不意に、すぐ近くから低い声が降ってきた。
揺里は心臓が跳ね上がるのを感じながら、声のした方を振り向いた。
棚の死角になっていた窓際の席に、一人の男の子が座っていた。
崩した制服のネクタイ。少し長めの前髪の隙間から覗く、眠そうな、けれどすべてを見透かすような冷ややかな瞳。
同じ学年のブレザーを着ているけれど、揺里の知らない顔だった。机の上には、図書室の貸出用ではない、分厚い海外の小説が置かれている。
揺里は涙の跡を見られないよう、慌てて俯いた。
「え……あ、うん。ちょっと、気になって」
彼はフン、と鼻を鳴らすと、椅子の背もたれに体重を預けた。
「サルトルか。それ、今の君にはちょっと毒が強すぎるんじゃない?」
「……どういう意味?」
「だって、泣くほど悩んでるんだろ。その本は、救ってくれないよ。むしろ、全部お前のせいだって突きつけてくるだけだ」
彼の言葉は、トゲがあるようでいて、不思議と今の揺里の心にすんなりとしみ込んだ。
教室のマイたちの、腫れ物に触るような視線よりも、ずっと真っ直ぐで、境界線のない言葉。
「……私のせい、でいいよ」
揺里は文庫本をぎゅっと胸に抱きしめた。
「誰かのせいにしながら、息苦しい教室で笑ってるより、自分のせいで傷ついてる方が、ずっといい」
少年は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ふっと、これまでで一番柔らかい、けれどどこか寂しげな苦笑を浮かべた。
「……変なやつ。一六立、だっけ。マイたちのグループにいるから、もっと何も考えてない子かと思ってた」
「私の名前、知ってるの?」
「同じクラスだろ。出席番号、君の次だから。……僕は千歳。千歳 蓮」
毎日通っていた教室。毎日見ていたはずのクラスメイト。
それなのに、揺里は彼の存在を、今の今まで「認識」していなかった。
自分がいかに狭い世界の中で、自分の見たいものだけを見て生きていたかを、突きつけられた気がした。
「一六立。その本を読み終えたら、次はもっと広い場所に行くといいよ」
千歳は立ち上がり、自分の本を鞄にしまうと、揺里の横を通り過ぎざまに、ぽつりと呟いた。
「学校の図書室なんて、この狭い世界の延長でしかないから」
ギィ、と扉が閉まり、図書室にはまた静寂が戻ってきた。
揺里は、彼が座っていた窓際の席に、そっと腰掛けた。
窓の外を見ると、いつの間にか青空は消え、どんよりとした雨雲が街を覆い始めていた。
世界は、私が思っているよりもずっと広くて、私の知らない人で溢れている。
千歳という「他者」との出会い。そして、彼が残した言葉。
(もっと、広い場所……)
胸の奥のモヤモヤは消えなかったけれど、その痛みの種類が、少しだけ変わったような気がした。
揺里は文庫本を開き、サルトルの最後のページへと視線を落とした。
街の大きな図書館へ、自分の足で一歩を踏み出すためのカウントダウンが、今、静かに始まった。




