第45話:水入れのひだまり、巡りゆくブルー
「ちょっと伊織! 筆持ったまま後ろ歩きしないでよ!」
「うおっ、ごめんごめん! 芸術の神様が俺をバックオーライさせててさ!」
美術室の後ろの席から、伊織くんの調子のいい声と男子たちの笑い声が聞こえてくる。彼はパレットを片手に、わざとステップを踏むようなおちゃらけた動きをして、周りを笑わせていた。
揺里がクスッと笑いながら、筆を洗うために水入れを持って立ち上がった、その時だった。
「おっとっと――!」
後ろを向いてふざけていた伊織くんが、バランスを崩してトトッとよろめいた。
「あ、危な……っ」
揺里が避けるよりも早く、伊織くんの体が揺里の肩をかすめる。
「きゃっ」と小さな声を上げてバランスを崩した揺里は、机の角に腕をこするようにして、その場にペタンと尻もちをついてしまった。手から離れたプラスチックの水入れが、床にゴトゴトと軽い音を立てて転がる。
「うわ、ごめん! 大大丈夫か、一六立!」
美術室が一瞬で静まり返り、伊織くんが慌ててパレットを机に放り出して、揺里の前にしゃがみ込んだ。いつものお調子者の顔が、一瞬で真っ青に引き締まる。
「ゆらりん、大丈夫!?」
「ちょっと、伊織何やってんのよ!」
すぐにマイとチカが飛んできて、揺里の左右にしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込んできた。
「うん、大丈夫……」
揺里は二人に支えられながら立ち上がろうとしたけれど、右の肘の少し下、パステルピンクのブラウスの袖をまくった肌に、赤く滲む小さな擦り傷ができているのが見えた。ジンジンと、遅れて小さな痛みが走る。
「あー、ごめん! 完全に俺の不徳の致すところだわ……。本当に悪かった!」
伊織くんは本気で申し訳なさそうに眉を八の字にして、頭を下げた。それから、ズボンのポケットにバッと手を突っ込むと、「これ、使え!」と一瞬の迷いもなく、一枚の布を差し出してきた。
それは、さっきの休み時間に、揺里が綺麗にアイロンをかけて返したばかりの、あのブルーのチェック柄のハンカチだった。
「ほら、とりあえず水道で傷口を綺麗に洗い流して、これで拭きなよ」
伊織くんは少し照れくさそうに視線を斜め下に外しながら、ハンカチを揺里の手元へと握らせた。
マイが「あ、それさっきの……」と気づいたように声を漏らしたけれど、チカが「マイ、ひとまず水道行こ」と揺里の肩をそっと抱き寄せる。
「うん。ありがとう、伊織くん」
揺里はハンカチを握りしめ、二人に付き添われながら水道へと歩き出した。
クラスのみんなの前でふざけ合って、ぶつかって、傷ができて、友達に心配されて。
哲学の本に書かれているような完璧な静寂ではないけれど、この不器用で、少しだけハラハラする日常の色彩が、今の揺里の胸を、優しくトクンと弾ませていた。




