第41話:十分間の早足、差し出された手のひら
キーンコーンカーンコーン。
一限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、それまで静まり返っていた教室に、一斉に教科書を片付ける音が重なった。
揺里は、自分の机のフックにかかったスクールバッグのポケットに、そっと手を伸ばす。綺麗にアイロンをかけたブルーのチェック柄のハンカチは、今もラベンダーの香りをほんのりと漂わせながら、そこにある。
(どうしよう……。やっぱり、今声をかけるのは目立つかな……)
胸の奥がトク、トク、と少し速いリズムを刻み始める。窓側の席を見ると、伊織くんはすでにいつもの男子たちに背中を叩かれながら、楽しそうに笑っていた。
いつ、どのタイミングで近づけばいいのか分からず、揺里がただハンカチの端を指先で握りしめていた、その時だった。
トコトコと、上履きの軽い足音が、揺里の机のすぐ横でぴたりと止まった。
「――一六立」
不意に上から降ってきた少し低い声に、揺里は「あ……」と声を漏らしてハッと顔を上げた。
そこに立っていたのは、いつの間にか男子の輪を抜けてやってきた伊織くんだった。彼はいつものおちゃらけた笑顔ではなく、まるで次の授業のプリントでも受け取るかのような、ごく自然な仕草で、すっと右手を差し出してきた。
大きくて、少しだけ日に焼けた、男子の手のひら。
揺里はハッと気がついて、バッグのポケットから、四角く折りたたまれたブルーのチェックのハンカチを慌てて取り出した。そして、彼の差し出された手のひらの上に、そっと重ねるようにして手渡した。
「……ありが、とう」
周りに聞こえないくらいの小さな声で呟くと、伊織くんは「おう」とだけ短く応えて、ハンカチを雑にズボンのポケットへ押し込んだ。
ラベンダーの香りに気づいたのか、ほんの一瞬だけ、彼の目元が優しく緩んだような気がしたけれど、それだけだった。
伊織くんはそのまま、何事もなかったかのように身を翻すと、また廊下の方で待っていた友達のところへ、軽快な足取りで戻っていった。すぐに「おい伊織、次の移動教室どこだっけ?」という男子たちの賑やかな声に混ざっていく。
本当に、ただそれだけの、一瞬の出来事。
揺里が少し赤くなった頬を隠すように、小さく息を吐き出して前を向くと、隣の列からマイとチカが、こちらをじっと見つめているのが見えた。
二人は何も言ってこなかった。ただ、いつもは誰とも関わろうとしない揺里のところに、クラスのムードメーカーの伊織くんが普通にやってきて、何かを受け取っていった不思議な光景を、ただ不思議そうに、静かに見守っていた。
窓から差し込む朝の光のなかで、揺里はカバンの中に残ったかすかなラベンダーの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、少しだけ軽くなった心で、次の授業のノートを開いた。




