第39話:ミストの魔法、私の部屋の小さな作戦
「あ、揺里。これ、使いなさい」
洗い上がったハンカチを手に取ろうとしたとき、お母さんが棚の奥から一本の小さなスプレーボトルを取り出して、手渡してくれた。
「これ、いい匂いするよ。アイロンをかけるときに少し吹きかけるの」
透明なボトルの中には、淡いラベンダー色の液体が揺れている。
お母さんはそれだけ言うと、また優しく微笑んでリビングへと戻っていった。やっぱり、誰に借りたのかは何も聞いてこない。
揺里はボトルを胸に抱えたまま、トコトコと階段を上って自分の部屋へと戻った。
ベッドの上に、お母さんが綺麗に乾かしてくれたブルーのチェック柄のハンカチを広げる。
鼻を近づけて、そっと息を吸い込んでみた。
昨日まで残っていた、伊織くんのあの少し背伸びしたシトラスの香りは、おうちの洗剤の匂いに消されて、すっかりなくなっていた。
なんだか、彼のいたずらっぽい笑顔まで遠くなってしまったみたいで、胸の奥がキュンと、少しだけ寂しくなる。
「……よし」
揺里は、お母さんから借りたフレグランスミストを、シュッとハンカチに向けて吹きかけた。
ふわりと広がったのは、おひさまの光をいっぱいに浴びたような、優しくてほんのり甘いラベンダーの香り。伊織くんのシトラスとは違うけれど、私の部屋の、私の一番大好きな匂いだ。
アイロンの熱を当てると、じゅうっと白い湯気と一緒に、その優しい香りがハンカチの繊維の奥までしっかりと閉じ込められていく。シワが綺麗に伸びていくたびに、揺里の心の中の緊張も、少しずつほぐれていくようだった。
パタン、パタンと、丁寧に四角く折りたたむ。
(……でも、これ、どうやって返せばいいんだろう)
机の上に置かれた、綺麗になったハンカチを見つめながら、揺里は再びベッドにごろんと横たわった。
天井を見つめながら、頭の中で明日の朝の風景を思い浮かべる。
朝の教室は、いつも賑やかだ。
伊織くんの周りには、きっといつもの男子グループが集まって喋っているはず。
そんな中に、私が一人で近づいていって、「はい、これ昨日のお礼」なんて手渡したら、それこそ今度こそ、結愛たちに何を言われるか分からない。マイやチカにだって、また余計な心配をかけてしまうかもしれない。
(みんなに見つからないように、机の中にそっと入れておく?……ううん、それじゃ誰のハンカチか分からなくなっちゃうよね。やっぱり、お昼休みにすれ違ったときに、そっと手渡す……?)
考えれば考えるほど、パステルカラーのカーテンが揺れる静かな部屋のなかで、揺里の心臓はトク、トク、とまたうるさく脈打ち始めた。
ただ、借りたものを返すだけ。
それだけのことなのに、明日が来るのが、なんだかいつもより少しだけ、待ち遠しくて、そしてちょっぴり怖かった。




