第3話:隠しきれないグラデーション
人は、他人の目を気にして生きている。
あの本を読み進めると、今度はそんな内容が書かれていた。他人がいるからこそ、自分の形がわかる。けれど同時に、他人の視線は、自分を勝手に決めつける「檻」にもなるのだと。
(……まさに、今の私だ)
図書室に通い始めて一週間。揺里は、教室にいる時の自分と、図書室で本を開いている時の自分が、全く別の生き物のように思えていた。
教室では「いつものゆらりん」という透明な仮面をかぶり、図書室では「一六立揺里」という一人の人間に戻る。
その二つの世界の境界線は、誰にも気づかれていないはずだった。
「ねえ、ゆらりん」
お昼休み。屋上へと続く階段の踊り場で、購買の焼きそばパンを齧っていたマイが、不意にジッと揺里の顔を覗き込んできた。
隣でスマホを見ていたもう一人の友達、チカも顔を上げる。
「え、なに?」
揺里はパンを噛みくだく手を止め、なるべく自然に聞き返した。
「なんかさ、最近ゆらりん、ちょっと変」
マイはストローでパックのミルクティーをズズッと鳴らし、首を傾げる。
「変、って?」
「うーん、なんて言うかさ。話しかけても、たまにすっごい遠い目をしてるっていうか。あと、放課後いつも『用事がある』ってすぐ帰っちゃうじゃん。もしかして……彼氏できた?」
「ぶっ、げほっ!」
揺里は思いきり咳き込んだ。
「ち、違うよ! 何言ってるの!」
「あはは、ほらチカ、ゆらりんめっちゃ焦ってる!怪しい~!」
マイとチカが顔を見合わせてニヤニヤしている。
「彼氏」という、いかにも女子高生らしい、分かりやすい正解。彼女たちの頭の中には、それ以外の選択肢なんて最初からないのだ。
「違うってば。本当に、ただの……ちょっとした用事」
「ふーん? じゃあさ、今日の放課後は空いてる? 駅前にできた新しいプリクラの機種、みんなで撮りに行こって言ってたんだけど」
マイの真っ直ぐな瞳が、揺里を捉える。
いつもの揺里なら、「行く行く!」と即答していたはずの誘い。でも、今の揺里の頭の中には、図書室のあの薄暗い棚と、昨日読み差しにしたページの続きが浮かんでいた。
サルトルは言っていた。他人の期待に合わせようと、自分を偽って演じることを「自己欺瞞」と呼ぶのだ、と。
(私は、また『いつものゆらりん』を演じるの……?)
胸の奥が、ぎゅっと息苦しくなる。
行きたくないわけじゃない。マイたちのことは大好きだ。でも、今の自分にとって、あの本を読む時間は、何よりも手放したくない「本当の自分」になれる時間だった。
「……ごめん。今日も、ちょっと行けなくて」
一瞬の沈黙。
マイの笑顔が、ほんの少しだけ引きつったような気がした。
「……そっか。じゃあ、仕方ないね」
チカがスマホに目を戻し、「じゃあウチらだけで行く?」と小さく呟く。
いつも通りの、賑やかなお昼休み。それなのに、揺里と二人の間には、目に見えない薄い膜のような、奇妙な距離が生まれていた。
放課後。
一人で階段を上り、図書室の扉を開ける。
いつもなら心を落ち着かせてくれるはずの静寂が、今日に限っては、冷たい拒絶のようにも感じられた。
自分の意志で、友達の誘いを断った。
誰に言い訳をするわけでもなく、自分で選んだ、放課後の過ごし方。
(それのどこが悪い!?……って、胸を張れたらいいのにな)
揺里は小さくため息をつき、いつもの哲学書を手に取った。
ページを開く指先が、ほんの少しだけ、迷うように震えていた。




