第2話:世界の輪郭、昨日の続き
昨日と同じ、3列目の窓際の席。
昨日と同じ、2限目の数学の授業。
黒板を叩くチョークの乾いた音と、ノートをめくるカサカサという音だけが教室に響いている。
いつもなら、揺里はこの時間を「ただやり過ごすための時間」として消費していた。スマホの時計をチラチラと見ながら、放課後になったら友達とどこのカフェに行こうか、そんなことばかりを考えていた。
けれど、今日は違った。
(……人間は、自由という刑に処されている)
ノートの端に、小さくシャープペンシルで書き付けたその言葉を、揺里は何度も指先でなぞる。
自由、という言葉は、本来ならもっとキラキラした、ポジティブなもののはずだ。校則が緩くなるとか、門限が延びるとか、自分の好きな服を着て出かけられるとか。
でも、あの本に書かれていた「自由」は、もっと冷たくて、重いものだった。
「じゃあ、この問題は……一六立」
「あ、はい」
不意に名前を呼ばれ、揺里はハッと肩を揺らして立ち上がった。
黒板には、複雑な数式のグラフが描かれている。答えはわからない。いつもなら、ここで「わかりません」と小さく俯いて、クラスメイトのクスクスという笑い声に紛れるだけだった。
「……xは、何にでもなれるから、決まらない、ですか」
突飛な揺里の答えに、教室が一瞬、静まり返る。
数学教師は眼鏡の奥の目を丸くしたあと、苦笑した。
「一六立、それは数学の答えじゃないな。でも、変数が無限にあるという意味なら、あながち間違いでもない。……座れ。次はちゃんと教科書を見とけよ」
クスクス、と今度は別の意味の笑い声が教室に広がった。
前の席の親友のマイが、振り返って「ゆらりん、ウケる。何それ、ポエマー?」と小さく口パクでからかってくる。
揺里は小さく笑い返しながら、席についた。
胸の奥が、ほんの少しだけドクドクと高鳴っている。
いつもの自分なら、絶対に言わなかった言葉。
間違えるのが怖くて、変に思われるのが嫌で、いつも「周りの正解」に自分を合わせていた。そうすることが、この教室で息苦しくならないための、唯一のルールだと思い込んでいたから。
でも、あの言葉を知ってしまった。
私は自由だ。間違えることも、変な答えを言うことも、誰の許可もいらない。
そう思った瞬間、いつもは自分を閉じ込める檻のように見えていた四角い教室の壁が、ただの「薄いベニヤ板」のように思えてきた。
放課後。
「ゆらりん、今日駅前に新しくできたクレープ屋さん行かない?」
マイに袖を引かれたけれど、揺里はそっとその手をすり抜けた。
「ごめん、今日ちょっと委員会のお手伝い頼まれちゃって。また明日ね」
「えー、ザンネン。じゃあまた明日ね!」
手を振って遠ざかっていくマイたちの背中を見送りながら、揺里は1人、校舎の階段を上る。罪悪感が全くないわけじゃない。でも、それ以上に、確かめたいことがあった。
最上階の、一番奥。
ギィ、と静かに図書室の重い扉を開ける。
西日の差し込むあの薄暗い棚の前に、昨日と同じ色褪せた文庫本が、揺里が帰ってくるのを待つように、静かに収まっていた。
昨日と、何も変わらない毎日。
けれど、本を抜き取る揺里の指先は、昨日よりも少しだけ力強かった。




