第25話:背表紙の迷宮、次の一歩を呼ぶ文字
千歳に「じゃあね」と小さく手を振り、揺里はいつもの『哲学・思想』の棚へとゆっくり歩みを進めた。
背中に受けていた彼の視線が外れて、パタパタと静かに本をめくる音が再び図書室に響き始める。自分の席に戻っていく彼の気配を感じながら、揺里は胸の手前にそっと手を当てた。トク、トク、とまだ少しだけ速い鼓動が、手のひらを優しく押し返してくる。
(千歳くん、あんな風に言ってくれるなんて思わなかったな……)
彼のぶっきらぼうだけど温かい言葉の余韻が、冷めかけたココアのように胸の奥をぽかぽかと満たしていく。誰にも言えない秘密を共有しているみたいな、この甘酸っぱいときめきが、今の揺里にはたまらなく愛おしかった。
でも、私の放課後はここからが本番だ。
揺里は小さく深呼吸をして、目の前に並ぶ背表紙に視線を走らせた。
少し前まで、ただの堅苦しい「大人の記号」にしか見えなかったこの棚が、今はまるで、まだ見ぬ世界へと続く秘密の引き出しのように見えている。
一冊目のサルトルは、私の心に「自由」というお守りをくれた。
じゃあ、次に出会う言葉は、私にどんな景色を見せてくれるのだろう。
(ええと……これは何て読むんだろ。デ、カ、ル、ト……?)
棚の端から一冊ずつ、真剣に指先でなぞっていく。
『方法序説』『純粋理性批判』『ツァラトゥストラはこう言った』……。
難しそうな漢字や、カタカナのタイトルがずらりと並んでいて、どれも学校の教科書よりずっと分厚く、少しだけ気後れしてしまいそうになる。
週末に大きな図書館へ行って、哲学以外にもたくさんの美しい本があることを知った。
それでも、やっぱり揺里はこの少し薄暗い棚の前に戻ってきた。自分の足で立ち上がり、教室の息苦しさとちゃんと向き合うためのヒントが、この世界のどこかにあると信じているから。
「……あ」
その時、棚の中ほどにある、少しだけ装丁の新しい文庫本に目が留まった。
落ち着いたディープブルーの表紙に、銀色の文字が静かにきらめいている。
タイトルは『孤独の幸福について』。
(孤独の……幸福?)
その言葉が、今の揺里の心にチクリと、けれど優しく刺さった気がした。
一人でいることは、寂しくて、痛くて、息苦しいことだと思っていた。でも、もしもそこに「幸福」があるのだとしたら――。
揺里は吸い寄せられるように手を伸ばし、その本を棚からそっと引き抜いた。
ページをめくると、サルトルの時と同じように、小さな活字が整然と並んでいる。
誰に言い訳をするわけでもなく、誰の許可を求めるわけでもない。
これが、一六立揺里が自分の意志で選んだ、二つ目の終わりの、そして新しい始まりのページ。
揺里は本をそっと胸に抱きしめると、夕暮れの光が差し込む窓際の席を見つめながら、小さく、けれど確かに、次の一歩を踏み出した。




