第23話:教科書の行間、私だけの小さな答え
キーンコーンカーンコーン。
4時間目の国語の授業を告げるチャイムが、静まり返った廊下に響き渡る。
窓の外からは、体育の授業をしている他のクラスの、少し遠いホイッスルの音が風に乗って聞こえていた。
「――はい、じゃあ今日の現代文は、この評論の続きからだな」
先生が黒板に白いチョークで文字を書き始める。
いつもなら、揺里にとってこの時間は「ノートを綺麗に写すだけの間」だった。先生が言った正解をそのまま書き写して、テストの時にそれを丸暗記する。それが、この四角い教室で落ちこぼれないための、一番退屈で、一番安全なやり方だと思っていたから。
けれど、今日は少し違った。
『人間は、言葉によって世界を切り取る。しかし、その言葉の枠組みに、自分自身が縛られてしまうことも少なくないのだ』
教科書の行間に並ぶ、少し堅苦しいその一節を目にした瞬間、揺里の胸の奥がトクンと小さく震えた。
(……あ、これ、知ってる)
サルトルの本に書かれていた、他人の視線や言葉に自分を押し込めてしまう「自己欺瞞」の話。そして、週末に大きな図書館で出会った、あのたくさんの本たちの気配。
(私は、『いつものゆらりん』っていう言葉の枠の中に、自分で自分を縛りつけて、勝手に苦しくなっていたんだな……)
先生が解説する黒板の文字の向こう側に、もっと深くて、もっと広い、私だけの思考の海が広がっているような気がした。
ただの暗記のための文字じゃない。この教科書に書かれている言葉も、かつて誰かが一生懸命に考えて、悩んで、この世界に残してくれた、大切な「お守り」の一つなのだ。
「――じゃあ、この段落について……一六立、読んでみてくれ」
不意に先生から名前を呼ばれ、揺里はハッとして立ち上がった。
いつもなら、間違えるのが怖くて、変に目立つのが嫌で、蚊の鳴くような声でただ文字をなぞるだけだった。前の席のマイやチカが、少しだけ心配そうに振り返るのが見える。
揺里は、机の上に置いたノートをそっと見つめた。
そこには、週末に自分の部屋で書き写した、あの丸っこい文字の言葉が静かに佇んでいる。
(大丈夫。私は自由なんだから)
「――『私たちは、あらかじめ決められた存在ではない。だからこそ……』」
揺里は胸いっぱいに空気を吸い込み、いつもより少しだけ、真っ直ぐで通る声で教科書を読み上げた。
自分の声が、教室の四角い壁に優しく反射していく。
読み終えて席につくと、マイが振り返って「ゆらりん、なんか今の、アナウンサーみたいでかっこよかった!」と小さく口パクで褒めてくれた。チカも、嬉しそうに目を細めている。
ふと斜め後ろに視線をやると、千歳が頬杖をついたまま、ほんの少しだけ驚いたように、けれどどこか楽しげに口元を綻ばせていた。
誰に言い訳をするわけでもなく、誰の許可を求めるわけでもない。
ただの国語の授業。いつもの四角い教室。
けれど、揺里のノートの余白には、誰にも見えない私だけの小さな「正解」が、きらきらと輝き始めていた。




