第18話:本のラビリンス、広がるパレット
胸に抱えたエッセイ集のぬくもりが、揺里の背中をそっと押してくれるようだった。
(そうか……。ここにあるのは、難しい哲学の本だけじゃないんだ)
あたりを見渡せば、どこまでも続く背表紙の列。
学校の小さな図書室では、棚の底がすぐに見えてしまっていた。でも、この大きな図書館は違う。私が一生かかっても読み切れないほどの、何万、何十万もの物語と言葉が、ここで静かに息づいている。
揺里は、宝探しをするような少し弾む足取りで、別の棚へと歩みを進めた。
もう検索端末の冷たい画面に向かう必要はなかった。自分の目で見て、心がときめいた背表紙を、自分の手で自由に引き抜けばいい。誰の許可もいらない、これこそが私の「自由」だ。
次に引き寄せられたのは、少し甘いインクの匂いが漂う『芸術・イラスト』の棚だった。
ずっしりと重い大判の画集をそっと開いてみる。
そこには、淡い水彩画で描かれた少女たちのイラストや、幻想的な星空の風景が、ページいっぱいに広がっていた。学校の美術の教科書に載っているような堅苦しい名画ではなく、今の揺里の感性にきゅんと響く、優しくてきらきらした世界。
(こんなに綺麗な世界が、本の中に閉じ込められていたんだ……)
さらに隣の『世界の文学』の棚へと足を進める。
可愛らしい装丁の海外の童話や、少し背伸びをしたくなるような大人向けの短編小説。背表紙のタイトルを眺めているだけで、まるでまだ見ぬ世界への扉が、いくつも目の前に現れるような錯覚を覚える。
いつの間にか、さっきまでの心細さや、後ろの人に舌打ちされた恐怖なんて、どこかへ消え去っていた。
学校の教室では、みんなと同じお喋りをして、同じ流行りに乗っていなければ、自分の居場所がなくなってしまうような気がしていた。みんなと違うことをするのは、少し怖くて、息苦しかった。
でも、この広い図書館では、私がどの棚の前に立って、どの本を開いても、誰も私を責めない。
私が水彩画のページを見つめて胸をときめかせていることも、旅のエッセイに心を馳せていることも、すべてが私の自由だ。
(私、もっとたくさん知りたいな)
哲学の本を読んで見つけた、自分の心を守るための「盾」。
そして今、他のたくさんの本たちを見つめながら見つけつつある、私の世界を新しく塗り替えていくための「パレット」。
揺里は、さっきの旅のエッセイ集と、新しく見つけた小さな画集を両手でそっと抱きしめた。
窓際にある、外の緑が見える明るい読書スペースへと向かう。
お気に入りのブラウスの裾を揺らしながら歩く揺里の胸の中には、パステルカラーの新しい感情が、まるで風船のようにふわりと膨らんでいくのが分かった。
これが、一六立揺里の、新しく広がる物語。
私は今、この広い本の海のなかで、本当の自分だけの居場所を見つけようとしていた。




