第17話:背の高い棚の影、やさしいインクの匂い
「……すう、はあ……」
壁に背中を預けたまま、揺里は何度も深呼吸を繰り返した。
カッと熱くなっていた頬が、図書館のひんやりとした空気に触れて、少しずつ冷まされていく。
誰も私のことなんて見ていない。そう自分に言い聞かせ、ポシェットの紐を握りしめていた手の力をゆっくりと抜いた。恥ずかしさの波が引いていくと、今度は自分の等身大の小ささに、胸の奥がキュンと切なくなる。
(落ち着こう。……大丈夫、私は本を読みにここへ来たんだから)
揺里は、涙がこぼれそうになるのをぐっと堪えて、顔を上げた。
目の前には、天井まで届きそうな、大きな焦げ茶色の木製の棚がそびえ立っている。
そこは、さっきまで探そうとしていた『哲学・思想』の、あの堅苦しい文字が並ぶコーナーではなかった。検索端末から逃げるようにして迷い込んだのは、もっとずっと手前にある、色鮮やかな背表紙が並ぶ棚だった。
ふと、その中の、一冊の薄い本に目が留まる。
それは哲学書ではなかった。
表紙には、淡い水彩画で描かれた、どこか懐かしいヨーロッパの小さな街並み。そして、その空をパステルカラーの風船がいくつも流れていく、可愛らしいイラストが描かれていた。
タイトルは『世界の、美しい屋根の上から』。
海外の旅の風景を集めた、小さなエッセイ集のようだった。
揺里は吸い寄せられるように手を伸ばし、その本を棚から引き抜いた。
そっとページを開くと、かすかに香るやさしいインクの匂いとともに、目の前に鮮やかな世界が広がった。
青い空に映える、赤レンガの丸い屋根。
窓辺に飾られた真っ赤なゼラニウムの植木鉢。
石畳の路地で、気持ちよさそうに丸くなって眠っている一匹の野良猫。
そこには、文字だけじゃなく、写真や温かい言葉が、ゆったりとした余白を持って並んでいた。
『世界は、あなたの知らない色で溢れている。
今あなたが見ている空がすべてじゃない。屋根の上に登れば、もっと遠くの、誰も見たことのない地平線が待っている』
エッセイの短い一節が、揺里の傷ついた心に、まるで温かいハチミツのようじわりとしみ渡っていった。
「……きれい」
小さな呟きが、棚の影に静かに溶ける。
さっきまで胸を支配していた、あの冷たい舌打ちの音や、自分の不器用さへの情けなさが、この本を開いている間だけは、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
哲学の本みたいに、難しい答えを教えてくれるわけじゃない。
でも、この本は今の揺里を、あの狭い検索コーナーからも、そして息苦しい学校の教室からも、もっともっと遠い、誰も私のことを知らない自由な世界へと、優しく連れ出してくれる気がした。
世界は、広いんだ。
意地悪な人もいれば、バスのおばあちゃんみたいに優しい人もいる。
そして、私の知らない綺麗な景色が、この世界のどこかで、私が見つけてくれるのを待っている。
本を胸に抱きしめると、トクトクと暴れていた心臓の音が、いつの間にか、いつも通りの静かなリズムに戻っていることに気づいた。
揺里の口元に、小さくて、優しい微笑みが戻る。
誰に言い訳をするわけでもなく、誰の許可を求めるわけでもない。
私は、私のペースで、この広い本の海を泳いでいけばいいんだ。
小さなエッセイ集を抱えたまま、揺里はもう一度、今度はしっかりと前を向いて、棚の影から一歩を踏み出した。




