第12話:放課後の背表紙、ささやきは風のよう
サルトルの本を元の棚へ戻したあと、揺里はしばらくその場に立ち尽くしていた。
指先が本から離れた瞬間、一週間分の張り詰めていたものが、ふっと軽くなったような気がした。やりきったという小さな満足感と、これから新しい場所へ向かうのだという、甘い緊張感が胸を満たしていく。
ふと、窓際の方へ視線を向ける。
そこには、いつもと変わらず、西日のオレンジ色に染まりながら分厚い本をめくっている千歳の姿があった。
夕暮れの光に透ける彼の少し長い前髪や、ページをめくる綺麗な指先をじっと見つめていると、揺里の胸の奥が、なんだかいつもと違うリズムでトク、トク、と小さく鳴り始める。
(……一言だけ、言ってみようかな)
自分のなかの区切りとして。そして、この一週間、同じ静寂を共有してくれた彼に。
揺里はスクールバッグを肩にかけ直すと、静かに、足音を忍ばせるようにして千歳の机の横へと歩み寄った。
影が落ちたことに気づいたのか、千歳がめくろうとしていたページの途中で、指先をぴたりと止める。ゆっくりと顔を上げた彼の眠そうな瞳が、至近距離でまっすぐに揺里を捉えた。
その瞬間、心臓が大きく跳ねる。
静まり返った図書室の中、自分の声がやけに響いてしまいそうな気がして、揺里はほんの少しだけ身をかがめた。彼にしか聞こえないような、小さな小さな声でささやく。
「あのね、千歳くん」
「……ん?」
ほんのり、石鹸のような、彼の制服の匂いが鼻をかすめる。
「あの本……サルトル、読み終えたよ」
千歳は一瞬、きょとんとしたように目を丸くした。
いつもツンとすましたような、何を考えているか分からない彼が見せた、年相応の、どこか不意を突かれたような表情。そのギャップがたまらなく愛おしくて、揺里の頬がじわりと熱くなっていく。
千歳はすぐにいつもの気だるげな表情に戻ると、ふっと視線を斜め下に落とし、小さく息を吐き出した。
「へえ。……本当に読んだんだ。物好きなやつ」
ぶっきらぼうで、少し冷ややかな声。
でも、その言葉の端っこには、ほんの少しだけ、彼なりの「よく頑張ったね」というニュアンスが隠れているような気がした。耳の端が、夕日のせいか、ほんのり赤くなっているようにも見える。
「うん。だから、私、今度の土曜日に……もっと広い場所へ行ってみるね」
千歳はそれ以上、何も言わなかった。また視線を自分の本へと戻し、何事もなかったかのようにページをめくる。けれど、その指先はどこか少しだけぎこちない。
「じゃあね、千歳くん」
揺里は小さく手を振って、図書室の重い扉へと向かった。
背中に受ける彼の視線が、なんだかいつもよりほんの少しだけ、温かいような、背中をそっと押してくれているような気がして、揺里の口元に自然と小さな笑みがこぼれる。
ギィ、と扉を閉めた瞬間、放課後の廊下の賑やかな声が揺里を包み込んだ。
けれど、トクドクと高鳴る胸の音だけは、しばらくの間、消えそうになかった。
もう、迷いはない。
マイたちとの約束のあと、私は、私の足で、あの街の大きな図書館へ行くんだ。
夕暮れの廊下を歩く揺里のローファーの足音は、昨日よりもずっと軽やかで、まっすぐに未来へと響いていた。




