第四話 名札
ミンの名札には、ミンと書いてある。
それなのに、客はミンのことを「グエンさん」と呼ぶ。
誰も、名札を見ていないからだ。
*
コインランドリー「白線」の向かいに、二十四時間営業のコンビニがある。僕は夜番の休憩に、そこでおにぎりを買う。
レジにいるのは、たいていミンだ。
二十四歳。日本語学校を出て、今は専門学校に通っている。日本語は、日本人の僕より丁寧だ。
「湊さん、本日も温めますか」
「いいよ、そのままで」
「承知いたしました」
ミンは、たまに「白線」に洗濯物を持ってくる。制服のポロシャツが三枚と、学校のジャージ。乾燥機が回っているあいだ、教科書を開いている。
「湊さん、ひとつ、相談があります」
ある夜、ミンは教科書を閉じて言った。
「店長が、もっとシフトに入ってほしいと言います」
「入ればいいじゃん」
「わたしは、入れません」
留学生のアルバイトは、週二十八時間までと決まっている。全部の勤め先を合わせて、だ。それを超えると、本人もお店も、困ったことになる。ミンは、カレンダーに自分の勤務時間を一時間単位で書いていた。
「店長は言います。名札を替えればいい、と」
ミンは、ポケットから名札を出した。
『グエン』
「グエンさんは、前に働いていた人です。もう国に帰りました。グエンさんの名前でシフトに入れば、わたしの時間は増えない、と店長は言います」
「それ、だめなやつだろ」
「はい。だめなやつです」
ミンは、静かにうなずいた。
「でも、もう二週間、グエンさんでいました」
*
二十三時。久我さんが来た。
「よう、夜番。今日も平和か」
「平和です」
「平和がいちばん退屈で、いちばん難しい」
ミンの話を聞くと、久我さんは缶コーヒーを一本、ミンに渡した。
「店長に、はっきり断れ。言いにくけりゃ、学校の先生に相談しろ。留学生の担当がいるはずだ。おまえが悪いんじゃない。そう言わせてる大人が悪い」
「でも、わたしの名前が」
「名前は、おまえのもんだ。誰にも貸すな」
ミンは、名札を握りしめた。
*
翌週、ミンは専門学校の先生と一緒に、店長と話をした。店長は謝ったそうだ。シフトは週二十八時間の内側に戻り、『グエン』の名札は、店の引き出しにしまわれた。
ミンは、「白線」に来て報告してくれた。
「解決しました。わたしは、わたしの名前で働きます」
「よかったな」
「はい。とても、よかったです」
事件は、それで終わった。
*
次の夜、僕はコンビニにおにぎりを買いに行った。
レジのミンの胸には、ちゃんと『ミン』の名札が付いていた。
僕の前に並んでいた、作業着の常連のおじさんが、レジ袋を受け取りながら言った。
「ありがとね、グエンさん」
ミンは、にっこり笑って頭を下げた。
「ありがとうございました」
次の客も、その次の客も、ミンを「グエンさん」と呼んだ。
誰も、名札を見ていなかった。
僕の番になった。
「湊さん、本日も温めますか」
「……ミン」
ミンは、少しだけ首をかしげた。
「はい?」
返事が、ほんの一瞬だけ遅かった。
「白線」に戻って、受付ノートを開いた。ミンの記録を探した。
どのページにも、ミンの名前はなかった。
ミンが洗濯物を持ってきた夜の欄には、全部、僕の字でこう書いてあった。
『グエン ポロシャツ×3、ジャージ』
二十三時十四分。三番の乾燥機が止まった。




