第十話 仮装身分
その刑事は、最初から客のふりをしていた。
洗濯物は、毎回同じ。白いワイシャツが二枚。
アイロンもかかっていて、洗う必要なんて、どこにもなかった。
*
コインランドリー「白線」の夜番を始めて、一年と少しになる。僕は湊。客の話を聞くのが、仕事みたいなものだ。
その男が来るようになったのは、二週間前からだった。三十代の半ば。スーツの上着を椅子にかけて、文庫本を読みながら、ワイシャツが乾くのを待つ。
話しかけると、穏やかに答えた。
「近くに越してきたばかりで。洗濯機、まだ買ってないんです」
一週間たっても、洗濯機は買っていないようだった。
*
二十三時。久我さんが来た。
久我さんは、作業着を三番の乾燥機に入れようとして、手を止めた。文庫本の男を、少しのあいだ見ていた。
それから、いつもどおりに缶コーヒーを二本買った。
「よう、夜番。今日も平和か」
「平和です」
「平和がいちばん退屈で、いちばん難しい」
男が帰ったあと、久我さんが言った。
「あれは、同業者だ」
「刑事ってことですか」
「歩き方でわかる。それに、あいつは一度も、乾燥機の残り時間を見なかった。洗濯物を待ってるやつは、何度も見るもんだ」
久我さんは、缶コーヒーを両手で包んだ。
「最近は、身分を偽って捜査ができるようになった。闇バイトの連中に、応募者のふりをして近づく。去年から始まったやり方だ」
「じゃあ、あの人は、この街の誰かを追ってる」
「たぶんな」
*
次の夜、男はまた来た。白いワイシャツが二枚。
僕は、思いきって聞いた。
「刑事さんですよね」
男は、文庫本から顔を上げた。少しだけ笑った。
「どうしてそう思うんですか」
「乾燥機の時間を、一度も見ないから」
男は、しばらく僕を見ていた。それから、静かに本を閉じた。
「少し前に、この近くで送金バイトの件があったでしょう。あの件の、もっと上を追っています。お金の流れが、この西口のあたりで一度止まって、そこから先が見えない」
『シロセン』という名前が、頭に浮かんだ。僕は、何も言わなかった。
「協力してほしいとは言いません。ただ、変わったことがあったら、ここに」
男は、名刺を一枚、カウンターに置いた。名前と、警察署の代表番号だけが書いてあった。
それから二週間、男は毎晩来た。
三週目の夜、男は来なかった。
翌朝のニュースで、西口の雑居ビルの一室から、闇バイトの指示役とみられる男たちが逮捕されたと報じられた。少し前の送金バイトの件ともつながっている、とアナウンサーは言った。
事件は、それで終わった。
*
一週間後、男が「白線」に来た。白いワイシャツは持っていなかった。
「お礼を言いに来ました。何もしていただいていませんが、ここにいる間、いろいろ見えました」
「捕まったんですね」
「実行役と、その上の何人かは。いちばん上は、まだです」
男は、乾燥機の列を見回した。
「いちばん上は、たぶん、顔がないんです。誰でもいい。役だけがある」
男が帰ったあと、二十三時に、久我さんが来た。
話をすると、久我さんは笑った。
「顔がない、か。うまいことを言う」
それから、三番の乾燥機に作業着を入れながら、ぽつりと言った。
「本物の警官も、役を着て街に入るようになった。そうなると、どっちが本物か、もう誰にもわからん」
僕は、男の置いていった名刺を探した。カウンターの引き出しに入れたはずだった。
名刺は、受付ノートの間に挟まっていた。
裏返すと、ボールペンで走り書きがあった。男の字ではなかった。
見覚えのある字だった。毎晩、ノートの最初の行に名前を書く人の字。
『久我 交代予定』
二十三時十四分。三番の乾燥機が止まった。
久我さんは、作業着を取り出して、ゆっくりと畳みはじめた。
「三番、まだ温いな」
その台詞を、久我さんが言うのは、三か月ぶりだった。




